明治の反知性主義が見た中国

2018年10月4日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「アヘン中毒」でヘロヘロ状態の僧侶

 50日ほどの滞在の後、内陸旅行の危険を考えるなら「宜しく清服を着」るべきだという日本領事館員の忠告を受け入れることなく、敢えて「日本服の儘」に明治25(1892)年3月末に上海を離れた。

 言葉も通じないわけだから、不安を抱えたままの一人旅である。某日、偶然にも旅先に日本人を訪ねる。彼女の傍らに立つイギリス人が片言の日本語で「澤山人、ワルイ、石ナゲマス、ドロボー、アリマス」と、内陸部は危険極まりないから一緒に上海に戻ろうと声を掛けてきた。だがイギリス人の親切を断って、危難を承知で一人旅を続ける。その時の心境を、「噫予は已に豕群に入り不潔不禮の苦を忍」ぶと綴った。

 原田の記述から想像するに、山高帽子にアゴヒゲ、振り分け荷物にコウモリ傘、膝まで隠れる丈の長い紋付、その下は尻を端折った和服の着流し、股引に素足で下駄というのが旅姿だったようだ。こんな姿を清国の、それも内陸の人々が奇妙に思わないわけがない。そこで「群集尾行し」、「予の四方は見物人常に絶ゆる時なし」。時に「群集は尚ほ去らす或は石を投し或は罵詈を極」めたとしても不思議ではないだろう。

 「清語」、つまり中国語がサッパリ判らない。原田には彼らが何を話しているのか理解できないから、疑心暗鬼は募るばかり。だが「無暗に怒るは間違の種なり今より清人如何に罵詈するも」、それらは「皆な好意の言と聞」き流すことにして「筆戰」に転じた。だが、「是等乞丏に類するもの我が筆意を解するや」との疑問も湧く。

 とはいうものの、案ずるまでもなかった。原田が「我日本雖少以禮建國中国者孔孟之裔無禮何到此我爲中國甚悲之矣(日本は礼の国です。孔孟の末裔である皆さんの無礼な姿を、甚だ悲しみます)」と記すと、「去了(立ち去れ)」の声があがった。すると十重二十重に取り囲んでいた人々は「疾風落葉を散らすか如く」に去っていったのである。

 とはいえ悪戦苦闘の旅は続く。

 船中で一緒になった僧侶は常にアヘンを吸っているうえに「手鼻をかみ何處となく塗り付けるの惡習あ」るだけではなく、夜中に「茶碗の中に膽を吐き翌日は之を洗ひもせす直ぐに茶を呑む」というのだから、確かに「唯見るさへも胸惡しく」なる。寺院だけは「我國の如く清淨閑靜」だろうと訪れたものの、「佛具佛具散亂蛛網充滿」し僧侶はアヘン中毒でヘロヘロ状態。「佛道影な」く、「殘るものは夫れ豚群」、あるいは「畜生」の類だった。

中国の「アメリカ認識」に大きな影響を与えたもの

 やがて人情朴訥と聞いていた山東省に足を踏み入れる頃になると、清国事情も判ってくる。そこで「日本服の儘」で医者の真似事をし「清人の氣を慰め」ながらの旅となった。

 明治期の日清関係を語るうえで欠くことのできない人物の1人である岸田吟香(天保4=1833年~明治38=1905年)なども薬の販路を拡げ、現地人の信用を得ながら活動拠点を確保していったことからして、内陸部の人々にとって日本人は医療関係者として迎えられていたようにも思える。同時期の旅行体験記に薬で相手の信用を得たとか、時に旅費に代えたとか記されている。どうやら日本人内陸旅行者にとって薬は必携だったようだ。

 原田は旅の途中に立ち寄った教会で3人のアメリカ人女性に援助を求めている。宣教師か修道女か。いずれにせよ、そんな場所で、しかも女性ながらアメリカ人は活動していたのである。上海の我が「賤業の淫婦」との差を考えないわけにはいかない。

 時に日本人の「傳道師」が住んでいると知らされ急いで訪ねるが、やはり「米人なり」。内陸各地まで入り込んでいるアメリカ人の存在は、やはり軽視できそうにない。たとえ彼らが純粋無垢な信仰心で日々を送っていたとしても、それが一般人民のアメリカ認識に与える影響は決して小さくはなかったはずだ。その影響は、現在にも続いている。その証拠に、政治的に激しく対立しようが、中国政府幹部の多くはアメリカに秘かに生活拠点を置き、子弟の多くをアメリカに留学させているではないか。

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