2024年4月19日(金)

明治の反知性主義が見た中国

2018年11月5日

清国を覆い尽くせ

 東京を出発し東海道を西に向かい、京都から大阪を経て神戸で乗船。馬関、長崎を廻って清国へ。いったい、清国のどこを、どのように歩いたのか不明だ。「楚水呉山ノ風月ヲ吟詠し」たものの、旅費も尽きた挙句に帰国したようだ。

 長崎着後、熊本、福岡、小倉、馬関から山陽道に入り、畿内、近江、越前、越後、信濃、上毛、下毛、常陸を経て上総に着いたのは明治27(1894)年4月。長崎から上総に直接戻らなかったのが疑問だ。上総到着3か月後の7月25日に日清戦争の戦端が開かれている。日清戦争直前の中国各地を2年ほどかけて歩いたことになる。

 宮内は清国での見聞を『改正清國事情探檢錄』(清國事情編輯局 明治廿八年)にまとめているが、自分でも得心できるような内容ではなかったらしく、目次の末尾に「他日身間暇に際せば千万言の大著」を著したいと宣言している。だが、その後は「身間暇に際」することがなかったらしく、「千万言の大著」が出版された様子は見られない。

 とはいうものの「千万言の大著」に込めようとしていたであろう宮内の考えは、『改正清國事情探檢錄』の冒頭の一文と、末尾に置かれた420字ほどの漢文に尽きているようにも思える。

 先ず宮内は「(清国の)國民の怯懦は世人の知る如き」ではあるが、やはり歴史・文明・版図・天然資源などの客観条件からすれば「今日の支那、政治に貿易に或は輕忽視す可からざるなり」。だが、「今や紀綱衰頽し萬國の嘲侮する所たり、豈に隣邦人として嘆慨なからんや」と綴った。

 国民は「怯懦」ではあるが、潜在的大国であり軽視すべきではない。だが社会の綱紀は乱れるままであり、世界中から侮られるばかりだ。こういった隣国の惨状は日本人としては「慨嘆」するしかない――これが清国に対する宮内の総論といったところだろう。

 では、そんな清国に対し、日本はどのように立ち向かうべきか。

 末尾の漢文で宮内は次のように説いた。読み下し文を挟みながら、全文を解読してみたい。

――我が国と「漢土」の間には2000年の交流の歴史があり、地理的・文化的側面からいっても他の諸国との関係とは違っている。だが今や清国は「紀綱は衰廢し、徒に中華を自尊し、驕傲無禮にも我と兵を交え」ようとする勢いだ。だから、昔からの隣邦と思ってはいけない。本務を怠り私利私欲に奔る官吏は少なくないし、それがために諸外国から「蔑視」されるばかりである。いいことはなに一つ見当たらない上に、いずれ我が国を狙ってくるはずだ。だから「苟も今日に之を懲らさざれば、異日の患は測る可からず。又、宜しく警戒、怠らざる可し」。

領土は広く人口の多さからして「眞に我が一大敵國たり」し清国ではあるが、国土の豊かさと物産の豊富さから考えれば、「是れ我が一大富源」でもある。だから世の中の「有志の士」は宜しく「彼の地」に立ち、「一業を企圖」せよ。志ある者は清国に出向き、「一大富源」を足場に事業を興すべきだ。もちろん祖国のために。

いまや「紅毛の徒」が「一大富源」を狙って様々に画策している。隣国の日本としては地の利を生かすべきであり、彼ら西洋勢力の後塵を拝するようなことはあってはならない。加えて「今や東洋の大權、既に我が邦に歸す。復た他邦人の手に移す可からざるなり」。

清国の国土は広大で土地は豊沃であり、未開の地は果てしなく続く。農業と工業は未発達で、良質な鉱山は未開拓であり、そのうえに道路・橋梁などの土木工事は手付かずのままにうち捨てられている。さらに宗教は振わず、教育は遅れたままだ。

「嗚呼、夫れ誰が能く其の業を興し、其の功を立てんか。蓋し我が邦人、既に眼を此に注がんとする者の多し」。清国は今に至る「三百年」の間、「滿人に制を受く」。ならば「同じく是れ同文の國、今後、千万年、我が邦に制を受くるも亦、非と爲さず。側聞せば、紅毛碧眼の士、動もすれば五洲坤輿を併呑せんと欲す。我が邦人士、亦、宜しく豪氣を彼の輩の上に在らしめ、勲業、遂に彼の輩の傲を壓っせん」――

 これは要するに、清国はダメなくせに我が国と一戦を交えようなどと無礼千万であるからして、今のうちに懲らしめておく必要がある。そうしなければ将来の禍となる。清国は我が国にとって「一大敵國」ではあるが、広大な国土と膨大な人口と無限の資源を秘めているから「一大富源」でもある。西洋人は清国の豊富な資源を虎視眈々と狙い跳梁跋扈しているが、「東洋の大權、既に我が邦に歸」したのだから何の遠慮がいるものか。この点に着目している日本人は少なくない。

 清国は異民族である満州族に300年もの長期にわたって支配されていた。満州族もわが民族も共に漢族からずれば異民族である。ならば異民族ではあるが「千万年」の後までも「我が邦」が清国を治めて「非と爲」すことはない。

 いまや「五洲坤輿を併呑せんと欲す」るような地球規模での大競争時代となった。この弱肉強食の時代の潮流に日本が遅れをとり、「紅毛碧眼の士」の後塵を拝するようなことがあってはならない。日本は清国の無礼を許すべきではない。そのためには「我が邦人士」は「豪氣」を発揮して、清国を覆い尽くせ――

 清国側からすれば無礼千万で傲岸不遜に思えたはずの主張だが、これが日清戦争前後という時代の日本社会の揺れ動く空気の渦の中から生まれたと考えるなら、その先に「俺も行くから君も行け……狭い日本にゃ住み飽きた。波の彼方にゃ支那がある、支那にゃ四億の民が待つ」といった心情――「支那浪人の世界」が待ち構えていたとしても強ち不思議ではないだろう。


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