2024年11月25日(月)

明治の反知性主義が見た中国

2018年11月5日

青年の「無鉄砲な心意気」

 1914年に重慶で生まれたフランス人作家で『領事殿』などの作品を残したリュシアン・ボダール(~1998年)は清末の重慶で領事を務めていた父親を回想し、次のように記している。

「青い大河の渓谷のはるかかなた、世界一の尾根のふもとに、肥沃な四川盆地がひらけている。私の父のアルベール・ボダールは重慶でフランス領事の職にあった。重慶は揚子江の激流をかきわける船首のような岸壁にしがみついている街である。驚くほど急勾配の階段、ありとあらゆる商売、はるばる上海からさかのぼってきた砲艦が接岸できる港(である)。領事の激務に励む父の夢は、インドシナに拠点をもつフランスがこの中国の地を支配下に収めること、ハノイから敷設される鉄道を活用して中国を保護化することにあった。父は四川省の省都成都で、次いで雲南省で、この途方もない計画の実現に奔走することになる」

 清朝末期において、「インドシナに拠点をもつフランスがこの中国の地を支配下に収め」、「ハノイから敷設される鉄道を活用して中国を保護化する」という「途方もない計画の実現」こそが、重慶で「領事の激務に励む父の夢」だったのだ。

 フランスに対するイギリスは、植民地であるインドを東に進んでビルマを併呑した後、ビルマ(現ミャンマー)北部要衝のバーモ(中国人は「八莫」と記す)、ミートキーナ(ミッチナー。中国人は「密支那」と記す)を経て雲南西南端の騰越に橋頭堡を築き、ここに領事館を設け、ビルマと雲南の回廊を扼し、西南方から清国を窺う。19世紀末から20世紀初頭のことだった。

 いずれイギリスとフランスの両国は「この中国の地を支配下に収め」、「中国を保護化すること」を狙っていたわけだから、宮内が旅行していた当時、すでに「紅毛碧眼の士、動もすれば五洲坤輿を併呑せんと欲す」る時代に突入していたと考えられる。

 そのような状況を見据えていたのだろうか。宮内は「苟も今日に之を懲らさざれば、異日の患は測る可からず。又、宜しく警戒、怠らざる可し」と注意を喚起し、「我 皇祖大神の祠を四百州に立て彼をして敬拝せしむるを祈る」――今のうちに清国を押さえておかない限り、後日に禍根を残すことになる。であればこそ清国全土に神社を建立し、清国人をして「敬拝」させよ、というのだ。

 もちろん、宮内の主張が実現されることはなかった。

『改正清國事情探檢錄』の行間から宮内の心情を類推してみると、明治34(1901)年に上海に設立された東亜同文書院(昭和14=1939年、大学昇格。昭和20=1945年、敗戦に伴い廃止)の代表的寮歌とされる「長江の水」(大正6=1917年)が思い出される。

「長江の水天を尽き 万里の流れ海に入る」と唱いだされる「長江の水」は全部で7番まであるが、「惨たる東亜の風雲に 凄愴の眉あがるかな」、「中華千古の光褪せ むなしく空に消えてゆく」、「亡国の恨汝知るや 巨象の病篤くして 外豺狼の牙とげど 岳飛天祥逝いてより 憂国の士なし世をあげて」、「緑の大野にたゝずみて 光瞳に空高く かの星雲を仰ぐとき 天籟声あり汝立ちて 東亜の光かゞやかせ」と続き、「人生意気に感じては 功名誰かあげつらふ 見よ九天の雲を呼び 乾坤一擲高飛せん 燃ゆる血潮にいざ歌へ 歌はゞ血潮のなほ燃えむ」と結ぶ――

「病篤」い「巨象」を前に、西洋勢力という「豺狼の牙とげど」も、清国には「憂国の士なし」。そこで志ある両国の若者が「血潮」を燃やして立ち上がり、「東亜の光かゞやかせ」というのだ。

 どうやら宮内の危機感は、「長江の水」を高唱したであろう青年の無鉄砲な心意気に通じるようにも感じられる。

 * * *

 宮内は「我邦光澤ヲシテ更ニ發揮」せしめんと「東京市小石川區新諏訪町廿一番地」に学文会を組織し、雑誌『新天地』の発行を試みるが、その先は不明だ。赤城の号を名乗っているところから、上州の産とも考えられる。「遊清之志」を抱くに至った経緯も、その後の人生も、もちろん生没年も共に不明。なにやら不明尽くしの人生だった。

  
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