2024年11月22日(金)

古都を感じる 奈良コレクション

2011年8月23日

 無性を除く4つの性は、それぞれに違いはあるものの、いずれにせよ、やがては悟りを開くことができる優れた人々である。これに対して、仏教をどうしても理解できないのが無性。無性はいつまでも凡夫のままで、決して仏にはなれない。仏になる種子、仏性(ぶっしょう)をもっていないのである。

 天台宗では「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」といい、すべての人は仏性をもっていると説く。

 大学院で学んでいた頃、「仏教には関心がない」と言っておられた私の先生が、「そりゃあ五性各別より悉有仏性のほうがよさそうだな」とおっしゃったのを懐かしく思い出す。

 インドに到った玄奘は、ナーランダーで学んだあと、ある寺へ行く。そこには大きな白檀の観音菩薩像が安置されていた。

 その観音像には不思議な霊験があり、参詣人がとても多かった。そこで、人が近づいて像を汚さないよう、像の四方、7歩ばかりのところに木の柵が設けられていた。

 それでも人々は柵の外から観音像に花輪を投げる。投げた花輪が観音様の手や臂(ひじ)にかかれば願いが叶うという。玄奘も花輪を3つ作り、それぞれに願いを込めて投げた。

 ひとつめの願いは、旅の平安と無事。ふたつめの願いは、死後に忉利天(とうりてん)に生まれて弥勒菩薩(みろくぼさつ)に仕えること。願いを込めたふたつの花輪は観音像の手と臂にかかり、見守っていた人々は足を踏み鳴らしてどよめいた。

 しかし、3つめの願いが私の意表を突く。玄奘はこんなふうに祈ったのである。

 「もしも私が無性でないのなら、頸に花をとどめたまえ」。

願いを込めて観音像に花を投げる玄奘
(藤田美術館所蔵「玄奘三蔵絵」より)

 玄奘ほどの人が無性であるはずがない。誰もがそう思うだろうが、玄奘だけが思っていない。もしや自分は無性ではないのかと玄奘は考え続けてきた。「釈門千里の駒」と称讃されながら。

 「五性各別」は決して差別的な考え方ではない。五性のうちのどれにあたるのか、他者にあてはめるのではない。自分自身がどれに該当するのかを考える。自分の問題として、自己の内面を真摯に見つめるための教えである。

 確かに「悉有仏性」は耳に心地よい。しかし、他の人たちはともかく、このような私に、本当に仏性があるのだろうかと、黙って静かに考える時間も必要だと思う。

 玄奘が投げた3つめの花輪は、見事に観音像の頸にかかり、人々はまたもどよめいた。

 玄奘から遅れること1350年。私がナーランダーの遺跡を訪れたのは、昭和56年(1981)1月のことだった。


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