パラリンピック出場の夢は果たせず
田村は高校時代、健常者の全国高校定時制通信制柔道大会に出場する傍ら、視覚障害者柔道大会にも出場して準優勝を収めた。これが転機となった。田村はこの結果を受けマレーシアで行われたアジア大会の-66kg級の日本代表に選出されたのである。
高校を卒業した田村は筑波技術大学へ進学。鍼灸学を専攻し鍼灸学士、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の免許取得に励む傍ら、兄に誘われブラインドサッカーを始めた。
「19歳のときでした。僕にとって初めての国際大会です。日本代表として日の丸を背負うのですからとても緊張しました。一階級につき一人派遣されるので僕だけメダルが取れなかったらどうしようとか、外国人選手と戦うのってどんなだろうとか考えてしまってプレッシャーは大きかったのですが、銅メダルを獲得してほっとしました。3位決定戦の相手は、その前の年に世界チャンピオンに勝っている選手と聞いていたので怖かった。いい経験になりました」。
筑波技術大の学生が中心になっている「アバンツァーレ筑波」というブラインドサッカー界では中心的なチームである。
「長い間柔道をやってきたのでチームスポーツをやってみたいと思っていました。片や相手を見て、組み合う競技ですし、ブラインドサッカーはアイマスクを付けて周りが見えないようにして行いますから、柔道とは両極端な競技です。みんなで一緒にプレーできることが新鮮でとても楽しかった」。
ブラインドサッカーに惹かれていく一方、競技者として視覚障害者柔道の追求は続け2006年度の視覚障害者柔道大会の60kg級の準優勝をはじめ毎年好成績を収めた。
しかし、世界の大舞台パラリンピック出場の夢は果たせずに競技生活を終えた。
「2012年のロンドン・パラリンピックの最終選考で敗れてしまいました。本戦5分で決着がつかず、延長3分でも決まらず最後は旗判定で負けました」。
「選手としてはこのパラリンピック最終選考を最後に引退を決意しました。結果、国際大会における戦績はアジア大会と世界選手権に出場してどちらも銅メダル。とてもいい経験をさせてもらったと思っています」。
ブラインドサッカーチームを立ち上げる
その一方、ブラインドサッカー「アバンツァーレ筑波」ではキャプテンとして優勝を果たすなど学生生活は充実していた。
その後、ブラインドサッカーにはまった田村は代表であり、選手兼監督として都内に「GLAUBEN FREUND TOKYO(グラオベンフロイント東京)」というチームを立ち上げた。グラオベンフロイントとは仲間を信じるという意味で名付けられた。
立ち上げた当初は活動する拠点がなく練習場所を確保するにも苦労した。決まった拠点がないという点では現在も変わりはないが、足立区の総合スポーツセンターの自由開放時間を利用したり、NPO法人の協力を得て公立小学校、中学校の校庭の空き時間に使わせてもらっているという活動状況である。