「言行不一致」の中華民国の憲法
「臨時約法」という文書がある。辛亥革命で誕生した中華民国の憲法にあたるもので、1912年3月11日に公布された。そんなに長文ではないけれど、いっそう簡明にそのエッセンス、第5条までを列挙してみよう。
第1条 中華民国は中華人民が之を組織す。
第2条 中華民国の主権は国民全体に属す。
第3条 中華民国の領土は、二十二行省・内外蒙古(モンゴル)・西蔵(チベット)・青海とする。
第4条 中華民国は参議院・臨時大総統・国務員・法院をもって、その統治権を行使す。
第5条 中華民国の人民は種族・階級・宗教の別なく、一律平等である。
百年たった大陸で、このいずれが実現しているかを考えてみれば、思い半ばに過ぎるものがある。「主権は国民全体に属」しているだろうか。「種族・階級・宗教の別なく、一律平等であ」ろうか。あるいは第6条にいう、人民が享受すべき「言論・著作・刊行および集会結社の自由」はあるだろうか。
中国の「人権」を考えるというなら、現在の不備を非難糾弾するだけでは不十分なのが、これで一目瞭然である。百年前そのように宣言しておきながら、なぜ今に至るまで、中国で実現できていないのか。たとえば、そんな問題の立て方をして、歴史をふりかえったほうが、いっそう実情に近づけるのではなかろうか。
けれども筆者にその全面的な答えがあるわけではないし、ここでそのくわしい考察や論述をするわけにもいかない。さしあたって、上にふれた「少数民族」の問題をとりあげてみよう。それはすなわち、さきに引用した「臨時約法」第3条にあたる。
「二十二行省」は万里の長城以南、主に漢民族の住む18省のほか、東三省と新疆省という元来は異民族の地をも、合わせて呼んだものである。それ以外はまったくの異民族、外モンゴルにいたっては、この当時すでに「独立」を宣言していた。それをふくめて一切が中華民国の「領土」だとするのは、やはり言行不一致の甚だしいものとみてよい。
中華民国が打倒した清朝は、満洲人の王朝であり、漢人・モンゴル人・チベット人・ムスリムを統治した。後三者は満洲人・清朝だから帰服したのであって、漢人とその政府に服属したわけではない。しかも清朝はそれぞれ在来の秩序・慣習を尊重容認し、いわば高度な自治に任せていた。漢人に対しても、例外ではない。それが厳然たる歴史事実であり、以後すべての前提をなす。
清朝の旧版図すべてを「中国」に
こうした体制に顕著な変化があらわれるのが、19世紀の後半。列強の勢力拡大によって、それぞれが脅威にさらされたからである。新疆ムスリム・モンゴルはロシア、東三省は日・露、チベットはイギリス。そればかりではない。漢人の住地18省にすら、列強が勢力圏を設定し、「瓜分」つまり一つの瓜を切り分けるように分割される、という「亡国」の危機が叫ばれた。そこで人口が多く、軍事的にも優勢な漢人が主導して、バラバラで弱体な自治に任せず、一元的な統治を志向するようになる。やがてそれは、清朝の旧版図すべてを「中国」という一体の主権国家につくりかえようとする愛国主義・民族主義に転化した。
そうした転化のただ中で起こったのが、辛亥革命であるから、一体の「中国」はまだ達成されていない。「二十二行省・内外蒙古・西蔵・青海」を主権のある「領土」とする、というのは現状・既成事実ではなく、あくまで目標・当為であった。