どうやらタイは、またぞろ政治の季節に入ったようだ。
だが今回は、たとえば2014年のクーデターに典型的に見られたような、たんなる政権を巡っての争いではない。事態の推移によっては王国としてのタイの根幹を揺るがせ、やがては東南アジア国際社会の仕組みに影響を及ぼす可能性も考えられる。
それだけに、経済発展途上の国や地域で共通して見られる所謂「民主化問題」を超えて、タイ独自の複雑で微妙な歴史的背景に目を向けておく必要がある。もっとも現在のタイは発展途上国の水準を遥かに超えてはいるが。
タイの国是は、歴代憲法が一貫して掲げている「国王を元首とする民主主義政体」である。憲法では「国王は崇敬され神聖な地位に在り、何人も侵すことができない。何人も、いかなる方法によっても国王に責を問い、あるいは訴訟を提起することはできない」と規定し、不敬罪を定めた刑法112条には「何人であれ国王、王妃、皇太子、摂政王を誹謗、侮辱、脅迫した場合、最高禁固15年の刑に処す」と記されている。
要するに「微笑みの国」は「国王を元首とする民主主義政体」の国であり、依然として不敬罪は重罪なのである。
これまでもタイでは王室批判は見られたが、今回の特徴はマハー・ワチュラロンコン10世王の68回目の誕生日(7月28日)、現国王の母親であるシリキット王妃の88回目の誕生日(8月12日)という王室にとっての慶事――それは国家的慶事でもある――が続く中で、ことに「Z世代(Generation Z)」と呼ばれる若者を中心に起こっている点にある。
あえて「最高禁固15年の刑」を承知のうえで動き始めたと考えるなら、はたして何が彼らを突き動かしているのか。
8月10日にはチュラロンコン大学と並ぶ最高学府のタマサート大学のバンコク郊外のランシット・キャンパスに3000人の学生が集まり、王室改革の声を上げた。これに対しプラユット・チャンオチャ首相は「一線を超えた」と不快感を表明したものの、若者らは9月19日に王宮に隣接するタマサート大学本校キャンパスで大集会を開く方針を打ち上げたのである。
一向に収束の方向を見せない新型コロナがもたらす将来への不安、軍政も同然のプラユット長期政権による強圧的な政府批判封じなど――閉塞化する社会への不満が若者を王室批判に向かわせる背景にあると、我が国メディアは現地から伝えがちだ。
だが今回の若者が見せる動きから判断するなら、王国としてのタイが国是として歴代憲法に掲げている「国王を元首とする民主主義政体」に対する信頼感が揺らいでいきている。「タイ式民主主義」と呼ばれ、長年タイを支えてきたてきた社会システムが制度疲労を起こしている。これが実態に近いのではないか。
現行憲法を含むタイの歴代憲法における国王の権能は明治憲法に謳われた天皇のそれに近く、権威・権力・資力を当然のこと、統帥権を掌握し、タイ最強の武装組織であると同時に、全土を隈なく管轄し掌握する官僚組織でもある国軍を総覧する。
かくて国王は現実政治を動かし、タイ政治特有の政権交代のための“通過儀礼”に近いクーデターの当否・成否を左右するばかりか、国論を2分するような重大局面に当たっては国民に範を垂れ、事態収拾の方向を指し示してきた。つまり「国王を元首とする民主主義政体」における国王とは、時に憲法を超越する存在とも考えられるのだ。
たとえば、1973年10月、長期軍事政権に反対する学生が決起した「学生革命」の際、当時のプミポン国王が学生支持を表明したことによって、国軍は政治の全面から引き下がらざるを得なかった。その時から1976年10月まで続いた束の間の「タイ式民主主義の時代」、国軍は政治的動きを封印する。この時をキッカケに、国王の振る舞いが現実政治に大きな影響を与えることになった。
1976年10月の「タマサート大学事件」(後述)を機に国軍は国政の表舞台に舞い戻るが、当時の国軍主流であり1977年から79年まで政権を握ったクリアンサク・チョマナン大将らは現行日本憲法に極めて強い関心を示し、いわば「君臨すれども統治せず」――象徴としての国王を模索していたようだ(筆者による同大将へのインタビューから)。
だが王党派を軸とする下院政党の支持を受け、クリアンサク政権を退けて政権に就いたプレム・ティンスラーノン大将は国軍主流ではなかったことから、国王との関係をテコに政権基盤強化に努めた。1981年4月の国軍主流を背景とするクーデターを叩き潰したことで、同大将は国軍の主導権を握ると同時に、国王を補完する形で国政に圧倒的影響力を発揮し、維持することになる。
9月19日の集会を前に、政府の意向を受けたタマサート大学当局は集会日を含む2日間、キャンパスを封鎖した。同時に警備当局も大学周辺を中心に道路封鎖を含む厳戒態勢を布いた。それというのも、おそらく政府当局は1976年10月6日に起こった「タマサート大学事件」(別名「10月6日事件」)の再演を危惧したからだろう。
1973年10月から3年ほど続いた「タイ式民主主義の時代」の崩壊を防ぐべくタマサート大学キャンパスに集まった学生は、国軍の政治介入に反対の声を上げた。その時、キャンパスの一隅の木に首吊り状態にされた人形が皇太子(現国王)に似ていると激怒した王室擁護の武装勢力が学生らを襲撃し、大学構内は大混乱に陥り、阿鼻叫喚の地獄絵図が現実化し多くの犠牲者が生まれた。
かくて国軍が出動し、混乱を収め、事実上の軍政復活を成し遂げ、以後、紆余曲折を経ながらも、国軍の政治支配が現在に至っているわけだ。
ここで敢えて指摘しておきたいのが、1981年4月にクーデターを、プレム首相が王室との連携に加え国軍内非主流派の支持を得て失敗させたことである。同クーデター制圧後、国軍内の主導権はプレム支持派に移り、それまでの主流派は一気に凋落してしまい、政治的発言権を失った。以後、国軍は実態的にはプレム大将にとっての“政治的手駒”と化した。
1980年代初頭に王室(権威)とプレム大将(権力)が同一歩調で歩み出したことで、その後に起こった数々の政治混乱収拾への図式が生まれ、現在まで続くタイ社会の安定と融和が維持されてきたと考えるなら、この態勢を下支えしてきたのはABCM複合体――A(王室)、B(官界)、C(財界)、M(国軍)――と言えるだろう。だが政治の長期的安定が彼らを既得権益層へと押し上げ、社会の固定化をもたらしたことも忘れてはならない。
どうやらプミポン前国王とプレム大将の連携、これを言い換えるならプミポン前国王とプレム大将の存在こそが「国王を元首とする民主主義政体」を現実的に機能させてきたと言えそうだ。
だがプミポン前国王とプレム大将も、すでに鬼籍に入ってしまった。であればこそ「国王を元首とする民主主義政体」が従前通りに機能することが困難となる事態は避け難い。国論が国王権威の「正統性」と政治権力の「正当性」を全面的に「是」と認めることで支えられて来たはずの「国王を元首とする民主主義政体」が動揺を来しつつある――このような状況が出現したことが、今回の王室改革要求の動きの根柢にある。こう考えるべきだろう。
実はABCM複合体を下支えにした「国王を元首とする民主主義政体」にとっての最大の難敵が、タクシン・シナワット元首相だった。
1980年代半ばの「プラザ合意」を機に急激に力を増した「円」が集中豪雨的に投資されることで、タイでは急激な経済成長が起こり、旧来の「C」を押しのけるように新興若手起業家が力をつけ政治的発言権を持つ。より合理的な経済発展を望むなら旧来からの社会の仕組みに根本的メスを入れ、経済を合理的・効率的に動かすシステムを近代的に造り変えるべしとの声を上げた。ABCM複合体が差配してきた社会に変革を求め、彼らが享受してきた既得権益を切り崩しにかかった。その象徴的存在がタクシン元首相である。