チャイナ・ウォッチャーの視点

2020年7月30日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]
(farosofa/gettyimages)

 香港を挟んでの米中対立は、このまま「回帰不能点(ポイント・オブ・ノーリターン)」にまで突き進むのか。香港の旧宗主国であるイギリスのジョンソン政権もまた対中強硬策に一歩足を踏み出した。だが、だからといって米英両国の強硬姿勢にたじろぎ、習近平政権が香港への介入をにわかに手控えることはないはずだ。

 9月に予定されている立法会(議会。定数70)選挙に際しても、香港国家安全法をタテに様々な規制を設け選挙介入することも大いに考えられる。そうなった場合、民主派や独立を求める本土派、さらに全身黒づくめの勇武派と呼ばれる超過激派などの反中勢力は、習政権(+香港政府)の独裁・強権体質を内外に強くアピールすることを狙うだろう。選挙ボイコット、さらには選挙・投票行動を直接妨害するなどの強硬手段を用い、選挙それ自体の無効性を国際社会に広く訴える可能性は高い。

 いずれにせよ香港国家安全法は昨年6月来の香港の混乱に終止符を打つものではなく、さらなる混乱を招くことだろう。

 香港問題をめぐる習政権の強硬姿勢に関しメディアは様々な分析を伝えている。だが、混乱の発端を探ってみれば、中国とイギリスの間で進められた返還交渉に臨む姿勢の違い、より端的に言うならイギリス(というより西側)が返還に賭けた中国側の“執念”を読み違えていた点に求められるようにも思える。

『中国との格闘、あるイギリス外交官の回想』(筑摩書房)

 香港がイギリス殖民地から中華人民共和国特別行政区に変る半月前の1997年6月15日、『中国との格闘、あるイギリス外交官の回想』(筑摩書房)が出版された。

 著者のパーシー・クラドックは1923年生まれで、ケンブリッジ大学卒業後に英国外務省に入省。文化大革命がもっとも激しく闘われ中国全土が大混乱に揺れていた1966年から69年の間、北京の英国代理大使館政務担当参事官、代理大使などを務めている。

 この時期、文革最過激派は、世界各国の中国大使館を拠点に従来の外交慣例を無視した過激・デタラメ・身勝手・理不尽極まりない「文革外交」を強行した。その象徴とも言える紅衛兵による北京の英国大使館焼き討ち事件に遭遇し、事件の事後処理に当たったのがパーシー・クラドックだった。ならば彼は、毛沢東思想で鍛造されていた紅衛兵たちと直接対決を経験していたに違いない。

 ここで忘れてならないのは、習近平国家主席ら現在の中国政治中枢を占めるのが紅衛兵世代であり、彼らより年齢が少し低かった紅小兵世代だと言うことだ。彼らは毛沢東が絶対権力を掌握する時代に生まれ、毛沢東を神と崇めながら成長している。いわば「毛沢東の良い子」を目指した「純粋毛沢東世代」とでも呼ぶべき世代である。

 パーシー・クラドックは駐東ドイツ大使、ジュネーブ代表部勤務を経て、1978年に大使として北京入りした後、84年まで、対外開放初期の中国を現地で観察しながら、鄧小平にハッパを掛けられる中国側外交当局を相手に香港返還交渉を進めた。

 1984年から92年は首相外交顧問に加え、イギリス諜報部門統括責任者を務める。サッチャー、メージャー両首相の特使として秘密裡に訪中し、天安門事件後の両国関係や香港問題処理を第一線で担当する。筆者の友人で香港を専門に研究するロンドン大学教授も、返還交渉におけるパーシー・クラドックの働きを高く評価していた。

 まさに一貫して現場で対中交渉に当たっていただけに、『中国との格闘  あるイギリス外交官の回想』からは交渉当事者のみ知る貴重な“肉声”が伝わってくる。

 大使時代に経験した対外開放初期を、「毛沢東のドグマから解放された中国は、人びとを豊かさへと駆り立て、本来の経済活動に目覚めさせた」ものの、その一方で「モラルの欠如は、汚職やコネ社会の弊害よりある意味では深刻な問題だった」と回想する。

 ここで興味深いのは、「共産党の組織は、無信仰者のために建てられた教会と同様に、いまでは単に社会のヒエラルキーを上るための手段として存在するに過ぎなかった」と見定める一方で、そんな共産党が独裁権力を握る「中国は開放政策の堅持を標榜し、外国から学ばねばならないという謙虚な態度を表明しておきながら、頑なで自己中心的な態度は相変わらずだった」という指摘だ。この辺りに、現在の習政権が見せる高圧的な対外姿勢の片鱗が窺える。

 1980年代に入り、いよいよ香港返還交渉が本格化する。

 当初の段階ではイギリスも香港も、香港が中国経済に多大の貢献をしているのだから共産党政権は香港の価値を高く評価し、香港には簡単に手出しはしないだろうとタカを括っていた。だが共産党政権は「香港に対する複雑な感情だけに突き動かされていた」。じつは「中国人のそうした感情の渦は、彼らを突き動かす力の源泉であり、われわれが無視しようとしてもできない、強烈な存在だった」。

 どうやら「香港に対する複雑な感情」「中国人のそうした感情の渦」は、中国にとっては香港の経済的価値を遥かに凌駕する重みを秘めていたようだ。であればこそ、中国からする「香港問題は、経済問題とは次元の異なるまったく別の問題」だったことになる。もちろん現在もそうではなかろうか。

 1949年10月1日、朱徳、周恩来、劉少奇ら昨日までは同志であったはずの共産党幹部を臣下のように従えてに天安門楼上に立った毛沢東は、内外に向け「今日、中華人民共和国中央人民政府は成立した」と建国を宣言し、さらに「これで我が国は他から侮られなくなった」と続けた。建国は、アヘン戦争以来の仇を討つ第一歩でもあった。であるなら、「香港に対する複雑な感情」の淵源が毛沢東の建国宣言に繋がっていると考えても強ち的外れではないだろう。

 「香港にイギリスの行政権を残し、中国に主権の存在だけを認めるという解決策を考える必要があった」とする当時のサッチャー政権は、「イギリスの行政権なしでは、香港の信頼感を取り戻すのはいかに難しいかを知らせる」一方で、返還後の“香港のかたち”を探るために北京詣でを重ねる香港の親中派企業家を通じ、「香港の経済的繁栄を教え、香港の繁栄が維持されるためにはイギリスの統治が必要なのだ」というサインを送った。

 1982年9月、北京に乗り込んだサッチャー首相に向かって、当時の趙紫陽首相は「私たち(イギリス側)に聞き逃せない重要な発言をした」というのだ。それが「経済的繁栄は、主権の問題からみて二の次の問題です。〔中略〕中国は間違いなく主権を第一に選ぶでしょう。中国にとってもっとも重要な問題は主権の回復だからです」である。どうやらサッチャー政権の思惑は最初から空回りしていたらしい。

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