チャイナ・ウォッチャーの視点

2020年4月20日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]
(estherpoon/gettyimages)

 新型コロナが世界を震撼させている最中に、半世紀以上も昔の中国で起こった事件など持ち出すべきではないかもしれない。だが、感染症の一種である髄膜炎の猛威の前に、3カ月ほどの短期間で16万人余が犠牲になったといわれる事件である。この数は現時点(4月18日)における世界全体の新型コロナ犠牲者15.4万人よりも多く、中国当局が4月17日に修正発表した中国における犠牲者3869人の40倍以上だ。

 かつての髄膜炎と目の前の新型コロナ――共に中国で起きた感染症被害であり、一方は中国国内に止まったが、一方は地球大に拡散してしまった。加えて多数の犠牲者である。やはり当時を思い起こしてみる必要があるはずだ。

 事件の経緯はこうである。

 ――文化大革命当初、共産党指導部内では劣勢だった毛沢東は、全国の若者(まさに「毛沢東の好孩子(良い子)」である)を紅衛兵に仕立てた。彼らを北京に呼び寄せ煽動し、毛沢東派の戦力に駆り立てた後、「革命の経験交流」を理由にして全国旅行を許した。「大串聯」と呼ぶこの制度は1966年8月に始まり、1967年3月に終ったとされる(一部に1966年12月で幕を閉じたとの説もある)。

 当時、全国民は戸口制度の下で都市住民と農村住民とに厳格に区分けされ、国内移動は固く禁じられていた。

 いわば一生を狭い生活圏で暮らすしかなかった時代である。にもかかわらず、憧れの北京に行けるばかりか、「絶対無謬の神」と崇める毛沢東の姿を拝することができるかもしれない。そのうえ食費・宿泊費・交通費などの一切が無料で、「紅色游」と称して全国各地の革命聖地の見学もできるというのだから、文革に便乗して名勝古跡見物を楽しんでしまおうと思い立ったとしても、決して不思議ではない。「毛沢東の好孩子」を自任したところで、やはり好奇心旺盛の世代である。かくて空前の大串聯ブームが巻き起こる。若者が大挙して国内を大移動し始めたのだ。

三密を超えた濃厚接触

 ギューギュー詰めの列車の中で、若者たちは『毛主席語録』を手に打ち振り、口角泡を飛ばす白熱の議論を延々と続けた。宿泊所は定員を遥かにオーバーして極限の雑魚寝状態。当時、彼らの利用する施設は換気装置など備えてなかったと思われる。そのうえ長期にわたっての着た切り雀で体は垢だらけ――「密閉」「密集」「密接」の「三密」を遥かに超えた「濃厚接触」状態のままに「毛沢東の好孩子」は全土を歩き回った。

 その結果、《大量のウイルス、細菌、その他の微生物が国内各地に広まっていった。革命青年がもたらした過密で不衛生な環境下でさまざまな病気が蔓延したが、そのなかで最も致死率が高いのが髄膜炎だった》のである。なお、《 》はフランク・ディケーター『文化大革命 人民の歴史 1962-1976』(人文書院 2020年)に拠る――。

 1966年8月時点で共産党中枢に髄膜炎発生が報告され警報が発令されていたらしいが、《革命を妨げることは認められないとの理由から、予防措置はいっさい講じられなかった》とか。かくて「毛沢東の好孩子」が利用する鉄道網に沿って、髄膜炎は全国に拡散して行った。大串聯は文革の興奮を全国に伝播させると同時に、髄膜炎を始めとする感染症の恐怖を全国に撒き散らしたのである。

 文革の高揚期であった当時、西洋式医学はブルジョワ医学であると否定され、毛沢東が医学部門における「自力更生」であると称賛したことで、素人に毛の生えたような「赤脚医生(はだしのいしゃ)」が大いに持て囃されていた。おそらく彼らが備えた医学の知識や技量、あるいは設備では髄膜炎を封じ込めることは到底不可能だったはずだ。

 異変を知ったアメリカが医療支援を申し出たが、当時のアメリカは「美帝国主義」と呼ばれ、ソ連と並んで中国にとっての最大の敵であった。であればこそ、不倶戴天の敵である「美帝国主義」からの支援を中国側が受け入れるわけはなかった。そのうえ政府衛生部門は劉少奇・鄧小平ら「資本主義の復活を目論む勢力」の一味として文革派の猛攻撃を受けていたことから、まともな医療行政は期待できるはずもない。

 事態が深刻さを増した1967年2月になって、《政府はやむなく西欧やアジアの製薬会社から数十万キログラムの医薬品を輸入し》、加えて全国規模で髄膜炎対策に取り組むための管理センターを設置した。だが時すでに遅し、である。《管理体制が敷かれたときにはすでに十六万人が死亡していた》のである。

 中国が厳格な対外閉鎖を敷いていたからこそ、髄膜炎被害の事実が国境の外に漏れ出し広く伝わることはなかった。「毛沢東の好孩子」を政敵潰しの手段に利用することなく、大串聯を行わず、国内移動厳禁を継続していたら、おそらく髄膜炎被害が中国国内で広範囲に拡散することはなかったに違いない。感染者が確認されたとしても、極めて限られた地域内での封じ込めは可能だっただろう。ということは当時、対外開放され中国人の国内外での移動が可能であったなら、髄膜炎被害が地球規模で拡大していた可能性は否定できない。

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