明治の反知性主義が見た中国

2020年3月1日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]
四川省成都の町並み(xiefei/gettyimages)

 中野孤山(生没年不詳)が広島県立中学校教諭の職を捨て、四川省総督・錫良による「教育家の招聘撰擇」に応じ、「天富の豊穣なる」四川に単身赴いたのは明治末年のことである。

 「世界的殖産興業の中枢」であり、「世界経済の将来を左右する」はずの揚子江を有しながら、なぜこの国は「常に世界の侮りを受くる」のか。これこそ「噫豈一大耻辱と謂ぶべ」きだろう。「東洋啓発を以て天職とする我が日本」は、国土が近いうえに同文同種の関係にある。だから「東洋の平和を永久に保維し、相提携して倶に共に富強を期せんとする」ために、日本人は「啓発の義務」を負う。日本人であればこそ「中央支那の事情を知るは、現時の急務」である――こう確信し、中野は勇躍して四川に向かった。 

 「玄海の荒波を渡り、渺々、茫々たる大洋に浮んで、東洋のパリーと目せらるゝ上海」で船を乗り換え揚子江を遡る。

便所は豚に尻を向ける

 いよいよ苦難の旅が始まる。

 まずは旅館だ。土間のままの「客室の周囲の角々には大概小便が霜を置いたやうに顕はれてゐる。柱と壁は鼻汁の余剰で光沢を放つて居て、容易に近寄ることはならず」。天井は崩れ落ちる一歩手前で部屋の中は埃だらけ。そのうえに「蜘蛛の網は縱橫に小蜘蛛大蜘蛛得意に遊んで居る、蜘蛛の養育所の様な観がある」。かくて中野は、蜘蛛の巣の張る室内を「蜘蛛類研究には大いに価値がある」と笑い飛ばすしかなかった。

 次は「臭虫(南京虫)の巢窟となつてゐる」寝台である。

 「先づ巾三尺長さ五尺七八寸、高さ一尺五寸位が通常で、中に橫木三本若くは五本、其上に割竹を竪に列べ、其所へ藁が薄く敷きてある、それも何時敷いたものだかわからない」。どこの旅館であろうが寝台は例外なく「古びてゐる」。だから宿での最優先は南京虫対策だが、厳重に防備しても守り切れない。「侵撃を受けて、真夜中南京虫と対戦したことは屢々だ」。かくて「早く免疫となつて、彼れの襲撃を意としな」くなるしかなかった。

 蜘蛛や南京虫は序の口である。問題は料理だ。

 料理番の「衣袴は垢膩み、面は煤脂に染み、指爪は甚だ長く、礼譲謙遜の美少なく、不潔無作法茶碗を拭ふに衣袴を以てする、鼻は手ばなに極つて居るが、手につくときは衣袴になする、〔中略〕やがてそれで飯椀もふく、尤も布巾もあるけれども雑巾を兼ねて居るのだから同じことだ。鼻をさすつた寝台も柱も卓も靴台も茶碗も箸も飯盤も拭ふ」。この布を「洗ひ出す桶が矢張同一だ、我国の様に布巾と雑巾の区別はない」。

 稀には土間ではなく床板式の客室に出くわすことがある。そこで「日本式と喜んだの」は束の間のこと。「豈計らんや、床下でやがて異様な聞きなれぬ声がする」ではないか。「四方を閉鎖し寝床に入れば、四方は寂として静である」。破れ窓の隙間から月光が射しこんで些か幽玄の雰囲気がするが、床下の異音は高くなるばかり。「やがて臭気は室内に満ちて鼻を突き、旅疲れの体を起こし、床板の隙間より燭をとつて見るに、数多の子豚親豚の巢窟である」。床下はブタ小屋だったのだ。

 防臭対策に応急措置を採ろうにも対応不可。「終夜臭気の刺激で、安眠の出来ぬ」。加えて旅館では「大抵客室の隣に、豚や牛が養はれてあ」り、「矢張り臭気は進入して来る」。便所では「尻を豚に向ける」ことになる。そこで「君子危きに近よらずといふ孔子の言に背かず、広濶の庭或は安全の室の角に放置する」ことになる。

 中野の不平不満も判らないわけではない。だが「東洋啓発を以て天職とする我が日本」とまで言い切った以上、泣き言は禁物だろう。それがまた中国の現実なのだから。

 中野の乗った船は、やがて漢口に。

 揚子江とその支流である漢水の2本の河川を挟んだ武昌、漢口、漢陽を古くから「武漢三鎮」と総称し、揚子江上流の四川と下流の上海を結ぶ一方、北京と広東を繋ぐなど全土の物流の要として発展して武漢市に至っている。現在、猛威を振るっている新型コロナウイルス(通称「武漢肺炎」)にしても、この街の持つ歴史的・地政学的環境を考えない限り、根治は容易ではないだろう。

アコギなドイツ商法

 漢口は1895年の下関条約によって日本にも開かれた。当然、日本人が居留し日本との往来もあるから、2軒の日本旅館が営業している。「竹廼家も繁盛してゐる松廼家も劣らぬ盛況」だった。そんな街で中野が目にしたのは、アコギなドイツ商法である。

 「漢口の日本商人諸氏は、日本発展先駆の士である、日本品の価値を高むるも日本人の品位を高むるもすべて先駆諸氏の関する所である」。「商品は確実堅牢なるべく、商法は誠実なるべき」は当たり前だが、列強諸国の居留民も多いことから注意の上にも注意が必要だ。「中にも独逸人の如きは常に日本品の欠点を探つて、之を害せんとつとむるばかりでなく、時々粗製の日本品を模造して、日本品の価値を失なはせんとつとむる」という。やはりドイツは「大敵であるから、一層意を用ひなければならない」。

 それにしてもデタラメな「日本品を模造して、日本品の価値を失なはせん」と画策していたとは、抜け目のない商法だが、断じて許し難い暴挙だ。

 漢口に先んじて歩いた上海でも、中野は「独逸の如きは我を大敵と見て甚だ努めてゐる。大いに心すべきことである」と痛感した。どうやら日本商品に対するドイツの妨害工作は漢口に限られたことではなく、中国全土で行われていたと考えたほうがよさそうだ。ドイツの商法は商人の仁義に反し、商人道に悖る。どこまでも、徹底して小汚く小狡い。

 「人情浮薄毫厘の争ひに情誼を顧みない」コヨーテのような現地商人だけではなく、「我を大敵と見て甚だ努めてゐる」ハイエナのようなドイツ人も商売敵だった。彼らを向こうに回して、苛烈なる商戦を勝ち抜かなければならない。だから「支那人其他諸外国人に対しては、大いに注意すべきこと」であり、彼らの術中に嵌まってしまったら日本が「発展の光輝を失ふを恐る」るのである。

 中野の忠告から100年ほどが過ぎた現在でも、中国市場においては依然として「支那人其他諸外国人に対しては、大いに注意すべきこと」に相違はないだろう。ドイツは日本を敵視し貶めようとする。にもかかわらず日本人はドイツを好む。この点を、日独伊三国防共協定の昔に遡って深く考えたいものだ。有態にいって、日本はドイツと組むことで国を益することはなかった。日本にとってドイツは、鬼門であり疫病神だったように思う。

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