2024年4月18日(木)

明治の反知性主義が見た中国

2020年3月1日

 揚子江に沿った各地で日本人が働いていた。彼らもまた「東洋啓発を以て天職」の志を秘めていたのだろう。

 たとえば順慶府大西街では「邦人中村富哉氏、当地中学堂にありて、我等を歓迎したり」。この街では「日本商品にては、タオル、歯磨、マツチ、其他雑貨販売せられたり」。また新都縣でも「数多の邦人の、歓迎するあり」。彼らもまた学校で教鞭を執っていた。

 かくして「入蜀の旅行の終りを告げ」るわけだが、旅の苦労を「噫交通至難!! 峡江の倹灘。噫交通至難!! 峡江の遡航」と簡潔に振り返る。それにしても、そんな艱難辛苦の先に漸く辿り着くような田舎街の学校で日本人が教師を務めていたとは、やはり驚き以外のなにものでもない。同時に彼らが残したであろう“有形無形の遺産”を、後の日本は有効活用したのだろうか。疑問は増すばかり。

 苦難を重ねた四川への旅の「沿道市街」の様子を細かに綴っているが、そのうちの面白そうな情景を紹介してみたい。

 「支那は国土の大なるばかりではなく、凡べてのものが雄大である」が、不思議にも「独り市街の道路は狭隘を極めてゐるので、常に雑踏をしてゐる」。そこで「轎子(かご)の通行の時なぞは、其混雑実に甚だしい」が、轎子の担ぎ手は「乗客の威をかりて」雑踏の中を進む。通行人がグズグズしていようものなら「突き倒し、踏みつぶして進む」。

 互いに行き違いが出来ないほどに狭い道で出会った場合でも、互いに譲らず「腰を据え轎を動かさず」。そこで「我は東洋(にほん)人に従ふものなりと威を示せば、先方終に避ける得る所まで後戻りする」。さぞや気持ちがよかっただろうが、そこまで日本人は威厳があったということか。日清、日露両戦争勝利のゆえか。それとも数多くの日本人教師の働きのゆえなのか。

 中野は道中で見かける乞食に興味を抱いた。

 時は冬支度が当たり前の11月のことである。「三人の若者が、素裸で藁をからだにばらばらに列べ、其上を又藁にて結び、宛然「ツトツコ」が歩いてゐる様であつた、足の方はまるで顕はれて居る。身体も矢張りまばらだから、筋肉は殆んどまるで見える、其の上部は首の所で束ねたから、余程異様である、藁も沢山ならば別段なれど、僅かに一本づゝ列べてあつて、そしてぶるぶる震へながら、路傍の飯屋で朝飯を請求して居た」。この姿を目にして中野は「実に憐然なものであつた」と思う。

 「実に憐然なものであ」る男の乞食に較べ、「婦人の無宿ものは更に見受けない、無宿の婦人は皆無のやうだ」。加えて「妙齢の婦女子は居るや居らぬや、一回も眼眸に映つたことはない」。そこで中野は「思へば支那程婦女子を愛する国民は少なからう」と考えた。

 街を出歩く「妙齢の婦女子」や女乞食を見かけないとは言え、それが即「支那程婦女子を愛する国民は少なからう」とはならないだろう。だが、確かに中国の「婦女子」は強い。近くは彭麗媛(習近平)。時代を少し遡ると鄧頴超(周恩来)、王光美(劉少奇)、葉群(林彪)、江青(毛沢東)、宋美齢(蔣介石)など。やはり暁を告げる牝鶏には事欠かない。

 ところで中野が「憐然なもの」と同情した3人の乞食だが、これまで目にした中国の乞食に関する日中双方の考察から得た僅かながらの知識を基に類推してみると、おそらく3人のうちの1人は藁の所有者で、他の2人に商売道具である藁を貸すことで使用料を得ている。つまり乞食の上前を撥ねて商売している乞食、あるいは乞食の元締めと見た。では、なぜ3人が行動を共にしているのか。貸し出した藁を身に纏ったままトンズラされるのを防ぐため、ということになる。

 この類推だが、おそらくは当たらずとも遠からじ・・・であればこそ3人を見て「憐然なもの」などと記すようでは、中野はまだまだ甘い、と言わざるをえない。

 内陸部は治安は殊に悪い。そこで外国人旅行者には地方政府が「必ず護衛兵を出す」。だが、これがナマクラな超弱卒。「我が軍人の剛毅凛然威風堂々たる練胆養気の功を積み、泰山前に崩れんとしても、神色自若たるには比すべきものでない、法被(ぐんぷく)を着ければ練勇(へいし)なるも、之を脱せば柔弱無気力の町民」。そう、法被を脱げばフヌケのボンクラなのだ。

四川人の「交際術」

 四川入りした中野が注目したのは四川人の「交際術」だった。

 彼らは「実に交際上手丈あつて、人物の観察や、談論の掛引きは、巧妙なるもので虚誕の談をなし、漫然と相背いて更に怪しまない」。「其権謀術策、真偽混合の談話中、相手の弱点を握り、或は操縱し、或は踏台とし、或は離間する等、其交際たる多くは自家の利便を計らんとする一種の意味ある交際多きを以て、之を術とするのである」。

 だが、これは「交際上手」と言うよりも、むしろ巧妙な自己保身術だろう。こういった交際術――「真面目を仮装し、虚礼を敢てし、毫も自個の弱点を暴露せず、豪然と威厳をたもたねばならぬ」――を駆使する彼らに対抗するためには、どう振る舞うべきか。

 やはり策の下の下は「和易、卒直、温順、親愛の態を以てする」ことだ。「妄りに言を信じて匆卒事に従」うことがあってはならない。そのようなヤワな態度で応対したら、「与し易しと益々礼を厚くし、言を甘くし、頗る我を誘ひ、穽中に陷入するの詐計をなす」。やはり「実に侮るべからざる」のである。かくして「我が同胞にして詐計に穽り、不覚を嘆じたるものも幾人かゐる」から、断固として「注意警戒すべきである」。

 「其権謀術策、真偽混合の談話中、相手の弱点を握り、或は操縱し、或は踏台とし、或は離間する等」の術策を弄する彼らに対し、「東洋啓発を以て天職とする我が日本」は「妄りに言を信じて匆卒事に従」うな――中野の忠言の“核心部分”だろう。

 現在まで続く日中交渉の歴史を振り返った時、官民を問わずに日本側は「和易、卒直、温順、親愛の態を以てする」ことに主眼を置いたがゆえに、彼らの「其権謀術策」に翻弄され過ぎた。その結果が「位負け外交」(中嶋嶺雄)ということになる。


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