明治の反知性主義が見た中国

2019年12月7日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]
関門海峡(Taku_S/gettyimages)

 水戸で天狗党が挙兵し、池田屋事件が起こり、四国連合艦隊が下関を砲撃した元治元(1864)年、阿川太良は長州に生まれた。身分は士族である。長じて地元選出衆議院議員秘書として上京した後、庚寅新誌社に転じた。

 ところが後輩から「あなた人は良いが西洋の学問も英語も学んでいない。だから先ずは成功の見込みなし。支那辺りに行けば道は開けるかも知れない」などという失礼千万な暴言を浴びせられる。これで発奮しなければ、やはり男が廃る。

 早速、上海から新聞を取り寄せ猛勉強を重ね、庚寅新誌社を離れて玄界灘を渡った。日清戦争に向かって風雲急を告げていた明治26(1893)年のことであった。

 この年の5月、日本では海軍軍令部条例と戦時大本営条例が公布されている。翌年になると、朝鮮独立党指導者の金玉均が上海で暗殺され(3月)、農民運動を指導する朝鮮東学党が全州を占領し(6月1日)、清国の朝鮮出兵に対抗し日本が朝鮮派兵を決定し(6月2日)、朝鮮側が清朝に援兵を請求する(6月3日)。かくてと緊張が続き、遂に清国に対する宣戦布告(8月1日)となった。

 このような時代であればこそ、日本では清国に対する関心はいやが上にも高まる。そこで「堂々東洋の大勢を論じ、或は滔々対清の大策を説き、或は縷々万言一書を著すこと」がブームになっていた。巷には、大上段に構えた堂々たる大著が溢れていたに違いない。だが、それらは「僅かに半歳若しくは一ヶ年の短時日」の経験に基づくものでしかなく、根拠薄弱で信用できるものではないと、阿川は強く批判する。どうやら当時も“俄か専門家”のゴ高説が世間を大いに沸かせていたらしい。

 「夫れ支那は世界の大国なり」。面積は欧州に「二倍し」、人口の多さは「世界に冠たり」。だから一知半解の知識に基づいて簡単に結論づけ策を立てるなどは軽挙・無謀というものであり、誤りがないわけがない。そこで阿川は、「静観黙察、自悟自信、然る後初めて口を開き筆を執」り、「実況を記し実態を写すを以て主となす」ことに狙いを定めた。つまり今風に言い換えるなら現地主義・現場主義ということだろう。

クラウドファンディングの先駆け?

 「腰掛主義」ではなく現地での長期滞在を予定している。「事情の許す限り、一心不乱」に現地調査を遂げたいのだが、資金の工面がつかない。そこで資金を募るべく『庚寅新誌』に次の広告を出した。

 ――「世間有為の士清国の事に付取調を要する事項あらば」、それを『庚寅新誌』に連絡してもらいたい。「予は其の事項の紙上に登るを見て、直ちに之れが取調に従事せんとす、読者請諒焉」――

 読者から調査事項と共に資金を募り、清国調査旅行の費用に充てようというのだから、最近流行のSNSを使ったクラウドファンディングの先駆けのような手法にも思える。阿川は中々のアイディアマンでもあったらしい。

 現地に足を踏み入れての実感では、たしかに清国の政府はどうしようもなくダメではあるが、「未た仲々二三年間には滅亡する景色も見え」ない。辛亥革命は1911年に起こっているから、阿川の天津上陸から18年ほど清朝は延命したことになる。18年を長いと見るか。短いと考えるか。それはともあれ、恒常的に中国崩壊論が好まれている現在の言論状況に照らして見ても、どうやら日本人は“伝統的”に隣国の崩壊を心待ちにしているようだ。

平和の戦争なる貿易

 清朝が簡単には崩壊しないと判断したことで、阿川の関心は必然的に「平和の戦争なる貿易の事」に向かった。

 中国とヨーロッパとの交易は漢代にはじまるが、ヨーロッパの大航海時代を経て「清の初め浙江省に定海県を置き、城外の埠頭」を交易場所に定めたことから、「各国の商船多く此れに集まる」ようになった。

 しかし「貿易は尚広東の一所に止まれり、而て海関吏等は貪欲無道私利之れ求め格外に苛税を課す」。そこで外国商人が不当を訴え適正な取引を求めるが、清朝政府は一向に取り合おうとはしない。「海関吏」、つまり税関吏が私利私欲のために多額の関税を不当に掛けたから、外国との交易は衰退の一途だった。袖の下が横行するから、マトモな商人は手を引かざるを得なかった。

 それでも、時代が変わった。ロシアやイギリスが清国に軍事的圧力を掛け、自国に有利な形の通商関係を樹立する。そこで我も我もとスウェーデン、ノルウェー、アメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、ベルギー、イタリア、オーストリア、日本、ペルー、ブラジルなどが次いだ。

 こうしてヨーロッパ人が「世界の財源」であり、「粟穀蔽地、金玉満山、累々穣々窮極する所を知らず」して「貨物の天府」と形容した中国の無尽蔵の富をめぐって、大競争時代の幕が開くことになる。

 西洋の商人は「北支第一の繁港」である天津に設けられた英仏の2つの租界において、いずれも豪壮な商館を構えて取引している。これに対し「我商館を見るに」、最大規模の三井洋行ですら「支那家屋を以て之に当」て、多くは「仏租界中の一小屋に蟄居するのみ」。みすぼらしくてセコイのだ。かくて「自尊自慢」が習いの「支那人」は日本商館を見て、「豈に欧人を揚げ、我國人を貶せざらんや」。

 自惚れの強い中国人であればこそ、立派な商館の西洋人に対しては平身低頭でゴマを擦るが、貧弱な「我商館」に拠る日本人をバカにするばかり。

 「我航海船の初めて当港に通ずるや、邦人相争ふて店を開き」はしたが、そのうちに多くは撤退し、いまや三井洋行をはじめとする4軒が残るのみ。その原因を探ってみると「一に曰く氣候激変の甚だしきこと」、「二に曰く活計程度の高きこと」、「三に曰く資金の薄弱なること」、「四に曰く忍耐力に乏しきこと」である。

 天津の夏冬の過酷な天候は、「第一軟弱なる商人等の勝ゆる能わざる所」だ。気候温暖からやって来た日本人には、天津の過酷な気候は耐えられそうにない。

 次に「当地家賃の昂貴なることは殆ど我東京に駕し、庶物亦之に伴ふ」。家賃は東京並みであり、諸物価は高い。高騰する生活費に駐在日本人は苦しむばかり。その上に「軽く人を信ぜす、又深く人を信す」という「支那人の性」も、日本商人の定着を阻んでいる。やはり相手の心の裡が読み切れないということだろう。

 立派な店舗を構えれば、彼らは心ひそかに「虛飾店」と見做し「必らずや日を経ずして斃るへしと、笑て顧み」ない。店構えを立派にすれば、インチキだとか、近いうちに店仕舞いして尻尾を巻いてき帰国するだろうとか。ともかくも口さがない。

 とはいえ、なんとか持ち堪えれば3年目にして「是れ侮るへからすと、憑るへき乎と」態度を改め、「是より信を置くこと日に厚く心傾け誠を盡す」ことになる。彼らは「既に一旦信を措く以上は、仮令他より喙を容れ誹謗讒間を試むるも、渠れ堅く信して疑」うことはない。いったん心を許したら、他からなんと非難中傷されようが徹底して信用してくれる。

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