明治の反知性主義が見た中国

2019年11月28日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 明治39(1906)年7月19日午後4時、広島高等師範学校を中心に東京帝国大学、第一、二高等学校、学習院、大阪高等商業学校、同高等医学校などの学生を加えた総勢600人余は、広島県宇品港から小雛丸に乗り込み、朝鮮半島・満州方面への修学旅行に旅立った。

 門司を経て船が外海に出るや、「日本海の大勝を祝し兼ねて乗組員一同の健康を祝す為めに」、船体を一回転させた後、全員が甲板に出て校長の音頭で「万歳を三唱し又『君が代』を二回合唱」したという。

日露戦争の旅順攻略作戦の司令官、乃木希典陸軍大将(Photos.com/gettyimages)

 いったい明治末年の若者は、日露戦争戦勝後の満洲に何を見たのだろうか。

 7月23日午前3時に大連に上陸した後、有蓋貨車に乗り込み2時間ほどで旅順へ。

 203高地が陥落したのは明治37(1904)年12月5日だから、一行の見学は激戦から1年半ほどしか経っていない。「広瀬中佐が一片の肉塊を残して消えたりし報国丸を始め福井丸其他十二三隻の閉塞船或は船体を表はし或は檣頭を見はし港口に橫は」ったまま。「正しく死者の名残り」を痛感したことだろう。

 次に向かった奉天ではバラック小屋のような兵舎を宿舎にし、「戦時将士の艱苦思ひ遣られたり」。

醜業婦と冒険的商人

 豪邸は荒れ果て、雑草は茂ったまま。滅亡を待つだけのような「老大国の様見るもあはれのことならぬなし」。だが商売だけは別だった。奉天の「市街不潔言語に絶す」るものの、人馬の往来は活発で、「人家櫛比し、熱閙沸くが如し。中には富商大賈軒を列ねて其の繁栄を競ふあり」。

 遼陽では「孔子以下の聖賢神位を祭れる」文廟を参詣する。

 昔は豪壮絢爛であったはずの建物は色褪せ崩れ落ち、内部は埃だらけ。参詣の人も絶えたままだ。関帝廟もまた荒廃し、子供や老人にとっての昼寝の場所に変わっていた。「関帝像の立てる檀上に、赤脛便腹を露出して、午睡を垂れる惰民あるのみ」。いったい信仰心はどこに消えたのか。あるいは、そんなものは最初からなかったのかもしれない。

 若者たちの関心は、満州在住の日本人に向かう。

 「我戦勝軍隊の労苦に対する感謝の念と国威自覚の心とは長く記念すべ」きであり、「満洲至る所に国力を認識せざるなし」と胸を張ってはみたが、「吾人の杞憂に堪へざらしむるものは我醜業婦と冒険的商人多きこと」であった。

 「我醜業婦と冒険的商人」は「軍隊の威力」を背景に商売を続けているが、「将来の満洲経営」を考えるなら「着実の目的を有し確実の資本を有する紳商の手を煩はすこと切なりと謂ふべし」。「醜業婦に至りては無懶漢の好餌となりたるは頗る憫むべきも其国辱たるや疑うべからず」。

 戦後の混乱期である。しかも戦勝国の国民だから「軍隊の威力」を背景に、先ずは一旗上げようと「醜業婦と冒険的商人」が乗り込むことは当然だろう。これは日露戦争後の満洲にかぎられたことではなく、古今東西を問わずに自然の成り行きだ。

 やがて混乱期を過ぎ社会が安定してくると、「着実の目的を有し確実の資本を有する紳商」が乗り込んでくる。かくて「醜業婦と冒険的商人」は不必要な存在として冷遇され排除される運命に甘んじなければならないわけだが、当時の在満洲日本当局は彼らに対し一定の配慮をしていたことが窺える。たとえば性病の拡大が満洲建設の阻害要因になればこそ、「醜業婦」への対策を怠ることはなかったようだ。

落書は本邦人の悪習

 奉天を経て清朝開祖を祀る昭陵を見学した折のことである。

 「支那人は一般に本邦人に対しては好意を表しいかなる要求も之に応ずるを常とす」るのだが、昭陵では「門を閉ぢて入るを拒」まれてしまった。それというのも「邦人の此に遊ぶもの動もすれば宗廟を穢」し、「殊に甚だしきに至りては落書きするもの」があるからだ。

 事実、日本人の記した落書きが残っているのだから弁解の余地もない。「落書は本邦人の悪習にてそれ教育者たるもの力を尽くしてこれが矯正を試みずして可ならんや」とは、さすがに教育者を目指す高等師範学校学生である。

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