2024年12月22日(日)

明治の反知性主義が見た中国

2019年10月5日

 宮本武蔵の生まれ故郷は岡山県東北部に位置する英田郡讃甘村だそうだが、武蔵生誕の地の北隣に社を構える神官の家に生まれた白岩龍平(明治3=1870年~昭和17=1942年)は、後に西園寺公望、近衛文麿、牧野伸顕などの知遇を得て、日露戦争開戦前年の明治36年(1903)に湖南汽船会社を設立し湖南省で水上交通運送を始め、明治41(1908)年に大東汽船、湖南汽船など4社を日清汽船会社に統合・改組し専務取締役として経営に当たり、翌年には東亜興業の創業に参画し取締役に就任している。

(NicoElNino/gettyimages)

 その白岩の許に出入りしていた安井正太郎が湖南省を歩いたのは、どうやら湖南汽船会社設立を構想する白岩の命を受けてのことらしい。

 安井によれば、湖南人は「土風古にして世利に淡く、慷慨節を尚ひ不義を為すを耻づ、学者は礼を勤め耕者は力に勤むといへる」らしい。財物に恬淡とし、礼を尊び、情に厚く、質実剛健であり、貧富に大きな差がなく、たまには乞食を見かけもするが、街並みは整然として清潔だ。「之を清国中何れの地方に求むるも見るを得ばからず」。

 つまり清国のどこを探しても、湖南人ほど頼もしく、湖南省ほど素晴らしい地域は見当たらない。一種の桃源郷といったところか。ベタ褒めである。

 加えるに「士人」は「簡率勁直」で「わが古武士の風あり」というのだから、やはり「日本人が湖南人を敬愛して自然に相親しまんとするは盖し偶然にあらずといふべし」。

 一方の湖南人も、自らの振る舞いが日本人を彷彿とさせることを知っている。「或は湖南を以て我が鹿児島に擬し、或は湖南省を目して小日本となせり」。

 湖南省の最高学府において学生に向って「卿等は自ら称して小日本人といふ、卿等は維新の俊傑西郷隆盛あるを知らんと説き出」す指導者がいるほど。このように西郷隆盛は英傑として「欽仰」されている。ということは、湖南省では明治維新が「欽仰」されていたと考えてもいいだろう。

 一般に中国では、日本を軽蔑する際に現在でも「小日本」の3文字が使われる。だが、いまから1世紀ほど昔の20世紀初頭までの湖南省において「小日本」は軽蔑・侮蔑のことばではなく、ある種の憧憬を込めて語られていた。湖南人は湖南省を「弟分」に見立て、「兄貴分」の日本を敬慕していたらしい。

「小日本」が輝きを以て刷り込まれていた

 毛沢東が湖南省の韶山に生まれたのは、日清戦争勃発1年前の1893年である。幼少時の毛沢東の柔らかかったであろう脳内には、「小日本」が輝きを以て刷り込まれていたと想像したいところだが。

 安井は日本と湖南省を比較して、「彼等(湖南省)の久しく取りたる排外の主義は、猶わが維新前に於る攘夷の主義と同じ」であり、「一旦開悟大勢の遂に固陋に安んずべからざるを知るや、孜々として只文明の輸入に後れんことを之れ怕るゝに似たり」とする。

 日本が攘夷を棄て一気に開国に舵を切り近代化への道を推し進めたように、湖南省また外国に向けて門戸を開き、西洋式の近代的な学校を各地に続々と新設させ、海外、ことに日本から多くの教師を招聘している。清国から日本への留学生のうち湖南省出身者は最多を数え、「商工殖産の重んすべきを悟り」、多くの人材が日本に派遣され近代化の方法を研究調査している。ここからも「以て彼等が時勢の進運に対し、翻然として覚悟するに至りたるやを知るに足れり」。だからこそ湖南省に注目せよ、と安井は力説する。

 ところで安井のパトロンだったと思われる白岩は、明治32(1899)年に「湖南人はその性質に於て真摯質実、我古武士の風あり。其排外は攘夷の思想に他ならず。故に一朝自覚する所あれば豹変して熱心なる改革論者たらんことは、甲午役(日清戦争)後の情勢に徴し識者の早く已に認識する所なり。況んや近時人材の輩出、未だ湖南省の如きはあらず。(中略)見来たれば湖南将来の希望、転た多大なるを覚ゆ」と記している。

 偏狭な持論に固執することなく、間違いに気づいたなら「豹変して熱心なる改革論者」となる。どうやら湖南人は原理原則に忠実な保守主義者ではあるが、自らの非を悟ったなら「豹変熱心なる改革論者」にもなりうる。かくして「近時人材の輩出」は他省の追随を許さない。湖南の将来に大いに希望あり、である。

 そういわれれば、中国近現代史は湖南人の奮闘によって貫かれている。

 早くも19世紀半ばには太平天国討伐に軍功を揚げ“黄昏の清朝”を救った曽国藩と彼に率いられた湘軍(湖南出身兵)、それに続く左宗棠。朝廷内保守派を一掃して清朝改革を目指した変法運動の先頭に立った譚嗣同や唐才常。彼らに続くのが清朝打倒の革命を推し進めた黄興や宋教仁、さらには1949年の建国を導いた毛沢東、劉少奇らの共産党指導者である。近代中国を代表するジャーナリストの梁啓超は「湖南は天下にあって人材の淵藪なり」とし、湖南を幕末明治維新期に人材を輩出した薩摩、長州に見立てた。

 たしかに黄興と近かったのは宮崎滔天であり、宋教仁は北一輝にとっては血盟の友だった。革命闘争渦中の黄興の振る舞いを、北一輝は西郷隆盛に重ねて称えていたはずだ。また大正6(1917)年2月から5月にかけて湖南省を訪れた宮崎滔天は、4月に湖南省立第一師範学校で学友会主催の講演会に臨んでいるが、宮崎を招請したのは毛沢東だった。こう見てくると、湖南人と日本人は“ウマが合う”らしい。

 安井によれば、「敬すべく親しむべき湖南人の門戸」を開いたのは「性情相近き」日本人であり、日本人の仲介によって諸外国の人々が湖南に足を踏み入れることとなった。「今や首府長沙は条約上の開港場として世界の通商貿易に開放せられ」、「(日本人と)湖南人との合資に成れる航通業は、既に定期の交通を開きて彼我貿易交際の用に供せら」た。

 だから日本人として湖南人の希望に寄り添い、教育・産業・商工業を心から支援し、貿易面で互恵互利の関係を築き、親善交流を深化させようと考えた時、やはり将来を願って「性情相近き両人種の、偶然にも相倚り相信ずるに至りたる」これまでの関係を一歩も二歩も進めるべきだ――こう安井は考えた。

 まさに日本人なければ湖南の開発・発展なく、日本人あっての湖南省といったところだ。

 安井は、湖南におけるキリスト教の布教にも強い興味を示す。

 キリスト教宣教師は万里の長城を越える朔外の砂漠地帯にまで教会を建て、「異教の迫害と肉体の危険をものともせず、彼等の所謂る福音の宣布に従事する」。事の是非はともかくも、彼らの努力には頭の下がる。だが「独り湖南省は支那の中央部に位置しながら」、これまで「其侵入を許さ」なかったのだ。

 これまでも布教は試みられたが、湖南人は断固として阻止した。1897年までは「湖南に一の宣教師なく、又一の教会堂なかりき」。20世紀に入って湖南省の主要都市に教会が置かれるようになったが、その大部分は「教徒たる清国人の住居するに過ぎず」、「外国牧師は一年に一二回」、それも夜間秘かに行動する程度で大っぴらに布教活動など考えられなかった。

 ところが1901年に宣教師迫害事件が発生するや、状況は一変する。


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