2022年8月18日(木)

明治の反知性主義が見た中国

2019年10月5日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 ここで当時の日本を振り返ってみると、黒船の来航=嘉永6(1853)年、安政江戸地震=安政2(1855)年、安政の大獄=安政5(1858)年、桜田門外の変=万延元(1860)年と続き、高杉らが乗り組んだ千歳丸の上海入港=文久2(1862)年となる。いわば高杉らが西欧との交易によって栄える上海の街を驚きを以て「徘徊」していた頃より10年ほど早く、すでに宣教師は布教のために中国の地を踏んでいたわけだ。

 以来、半世紀。排外主義に満ちた湖南省を舞台に、「撓まずんば効果期して挙ぐるを得べし」の精神を貫いたからこそ、キリスト教にとって「実に欣躍に堪へさる」状況を産み出し得た。ともかくも短兵急に成果を求めることなく倦まず弛まず任務に励め、である。だが日本人は、これが不得手なのだ。

 かくして「欧州列強が清国主権の薄弱なるに乗じ、或は土地の租借に或は鉄道鉱山の利源」に狙いを定め、半世紀にわたって「勢力範囲の拡張を努」めてきた。その結果、ほぼ完ぺきな形で「尨大なる満清の境土」を押さえてしまった。

 こうなると最後の最後まで列強に対し門戸を閉じていた湖南省も、「早晩列強の染指を免かるべからざるは」をえなかった。やはり時の流れには、いつまでも逆らえない。

「清国の衰運を挽回」

 ここで安井は、湖南省の近代化に関する自説を展開する。

 湖南人を動かして湖南省を対外開放させ、「二十世紀の文化を輸入して教育に武備に農工殖産に貿易交通に彼等が其の聡明勇敢なる特性を発揮せしめ」る。彼らを導いて「地方の安寧幸福」を達成させる一方で、「清国の衰運を挽回」するように努力させるのは、やはり「同文同種にして且つ性情相近き本邦人」の責務であり、「彼等も亦本邦人を得て初めて相信じ相依るを得る」ことが出来る。

 「両国経済共同の必要を益」し、「経済同盟はやがて政治の同盟」に、「政治の同盟」は「国民の聯絡」に、「国民の聯絡」は「政府の聯絡」に発展する――こう安井は構想する。

 どうやら、この辺りにロマンティシズムに満ち溢れた理想主義的な「東亜保全論」の萌芽が見て取れそうだ。

 だが、この「東亜保全」という考えは、その後に続く日露戦争、辛亥革命、清朝崩壊、中華民国成立、軍閥割拠から日中戦争を経て日本敗戦へと続く疾風怒濤の時代の渦中で、ものの見事に破産したのではなかったか。

 亡国目前の清国、その清国を革命して建国したとは言うものの国家の態をなしていない中華民国、その中華民国を目覚めさせ、目覚めた中華民国と提携することで西欧列強に対抗し、本来の東亜を回復する――これを東亜保全論の理想形とするなら、この理想に向って進んだ「支那通」も少なくなかったように思う。そのなかの1人に旧陸軍の支那通を代表する佐々木到一がいた。

 佐々木は中国で台頭するナショナリズムを積極的に評価した。おそらく両国のナショナリズムによって「政治の同盟」から「国民の聯絡」へ、やがては「政府の聯絡」に進ませようと夢見たのではなかったか。だが、やがて中国のナショナリズムが独自の形で、あるいは欧米列強による様々な政治的思惑の中で日本に牙を向けるようになったことも、また事実だろう。湖南が小日本、湖南人が小日本人だった夢のような時代は、一瞬の幻だったのかも知れない。

 明治36(1905)年冬から翌年春にかけて中国南部を旅した歌人の佐々木信綱の「長江の水ひんがしに五千年国は老いたり民たゞに眠る」に、なぜか安井は魅かれたようだ。

■安井の生没年は不詳。引用は安井正太郎『湖南』(博文館 明治38年)に依る。

  
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