香港の混乱が止まない。
まるで過激化が自己目的化したかのように、若者の行動は先鋭化するばかりだ。一方の当事者である林鄭月娥(キャリー・ラム)長官をトップとする香港政府は有効な対応策を打ち出せないままに焦り、悩みは増し、対策は空転する。だが冷静に考えて香港政府に最終的な自己決定権が与えられていない以上、致し方のないことでもある。
過激な若者の中に紛れ込ませた工作員の手で暴力行為をテロの段階にまで引き上げさせ、テロ制圧を口実に香港に隣接する経済特区内に待機中の治安部隊を投入し、香港全体に拡大した抗議行動を一気に鎮静化させて秩序回復を狙っている――これが中国側の方針だとか、すでに香港は米中冷戦の戦場と化したとか。報道も錯綜し、先鋭化するばかりだ。
“最終着地点”が見当たらないままに時間のみが経過する。攻守双方の緊張と自制のバランスが崩れ、事態が「回帰不能点」を越えた時には、習近平政権が社会の安定を最優先に掲げ、国際世論に逆らってでも動き出すことも考えられる。だが国際社会は、“天安門事件の再演”を傍観しているわけにはいかないだろう。
「一国両制」の矛盾
6月以来の香港にみられる異常事態の根源は、やはり「一国両制」の下の特別行政区という仕組みが抱える根本矛盾に潜んでいるとしか考えられない。
筆者は1970年代秋に留学し、一般家庭に下宿しながら5年ほどを香港で過ごした。それゆえに個人的ではあるが、“青春の地”の混乱には戸惑うばかり。哀しくもあり寂しくもある。留学以来、半世紀余の時間を掛けて積み重ねてきた“香港認識”だけでは、現在進行形で進む香港の激動は、どうにも理解し難い。歯痒いばかりだ。これまで見られた民主化運動とは全く異質な香港独立派が掲げる過激な主張には、やはり首を傾げるしかない。
中国南部の名も無いような小さな島が国際社会の注目を集めるようになったキッカケは、1840年にイギリスが清国に仕掛けたアヘン戦争だった。産業革命の結果、マンチェスターで大量生産が可能になった綿製品の販路を求め、イギリスは広大な清国市場に目をつけた。
だが対外閉鎖されているゆえに、清国市場では外国商品を自由に販売することはできない。そこでイギリスは軍事力で強引に閉鎖市場をこじ開け、清国を国際市場に引きずり出すことを狙ったのである。
開戦以前から香港を清国市場への橋頭堡と目論んでいたイギリスは、清国から香港島(1842年の南京条約)と九龍(1861年の北京条約)を割譲し、1898年に99年期限で新界を租借した。かくして香港はイギリスの極東経営の拠点として異常なまでの繁栄を迎える。
1910(明治43)年、ロンドンからの帰路に香港に立ち寄ったのが、大阪朝日新聞特派員の長谷川如是閑(1875年~1969年)だった。夏目漱石がロンドンでの留学生活をはじめた10年後のことだ。
明治・大正・昭和を代表するジャーナリストで知られる長谷川は、イギリスによる香港の植民地化を「九竜と香港とを取って更に九十八年に北緯二十一度九分の線から北を東経百十三度五十二分より百十四度三十分に至る間、真四角に分け取ったがその手段は余り真四角ではなかった。何しろ衡の一方が飛び上がって一方が地に着いている始末だから、両者の間の平衡は強者の意思に代って維持せられる」(『倫敦! 倫敦?』岩波文庫 1996年)と評した。
イギリスの手荒な方法によって植民地とされた香港の運命は、その時々の「強者の意思」によって「維持せられ」るものの、そこに香港住民の意思が入り込む余地はなかった――植民地であるゆえの香港の悲哀を、長谷川は鋭く感じ取ったのだ。
第2次大戦後、返還のチャンス
その香港が植民地を脱し、中国に戻る絶好の機会が訪れる。
第2次世界大戦に際して連合国側に与した蔣介石は、“後見役”のルーズベルト大統領を通じてチャーチル首相に香港返還を求めた。だが「断固として手放さない」とするチャーチルは、「第2次大戦で獲得した国境線は変更させない」との強硬姿勢を崩さないスターリン首相と手を組んだ。急死したルーズベルト後任のトルーマン大統領は蔣介石とソリが合わず、米・ソ・英の3大国によって蔣介石の望みは潰え、香港が返還されることはなかった。