チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年8月20日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 ここで視点を変え、「幾人かの外国の御主人」を北京の中央政府に、「若干のおべっかをつかう『高等華人』と手先をつとめる奴隷的な同胞の一群」を林鄭月娥(キャリー・ラム)長官以下の香港政府高官、親北京の立法会議員や企業家に置き換えてみたい。ならば香港社会の基本構造は現在も魯迅が訪れた当時と同じ――「土地の者」の生殺与奪の権利は「強者の意思」に委ねられたまま――ということだろう。この事実に気づき不満を抱く「土地の者」からの無言の支持が、若者による今回の過激行動のバネになっているようにも思える。

香港は植民地のままに返還された

 やや皮肉な見方をするなら、香港は植民地のままに返還された。1997年6月30日から7月1日を跨いで宗主国がイギリスから中華人民共和国へと交代し、香港は特別行政区の5文字を冠せられ「一国両制」というタガを嵌められてしまったというわけだ。

 少数民族の苗族や猺族のように漢族の横暴に耐えかねて深山に隠れ住む道も、ましてや植民地で耐え忍びながら死を迎える「土地の者」となることを拒否するなら、やはり独立の道しかないのか。たとえ非現実的な選択肢であろうが、若者がそう思い詰めたとしても否定できそうにない。

 魯迅が香港を訪れて40年ほどが過ぎた1967年、「香港暴動」が起こる。この40年の間に、混乱極まりなかった中国は共産党独裁政権によって統一され、毛沢東思想による一元的な支配体制が布かれていた。

 これに対し香港は、相変わらずイギリス植民地のまま。香港留学時に知り合った友人の中には、毛沢東思想の信奉者もいた。彼らは例外なく「香港はイギリス植民地から脱却すべきだ」と熱く語ってくれた。「だが、オレたちの目の黒いうちは到底ムリだろう」と寂し気に口を閉じるのが常だった。

 ところが、である。1966年に中国で始まった文化大革命に煽られたように、香港左派が反英闘争をはじめた。1967年だから、筆者が留学する3年ほど前のことだ。『毛主席語録』を手に、毛沢東バッチを胸に、毛沢東に忠誠を誓う「忠字舞」という踊りに興じる香港版紅衛兵となって、彼らは香港政庁に激しい戦いを挑んだ。

 催涙弾の煙に包まれた街頭で激しく抵抗する香港左派に対し、警備当局は容赦なくゴム弾を撃ち込んだ。中国側が『人民日報』などの宣伝媒体をフル動員し、香港政庁の一連の対応を強く非難する一方、香港左派の動きに徹底支持を表明したことは言うまでもない。

 当時の香港世論を思い起こすと、香港左派の反英闘争への支持も認められるし、香港の安定を強く求める声もあった。混乱の香港から脱出する有力企業家もあり、経済は苦境に喘いだ。だが、香港政庁が本国政府の支持を背景にした断固たる方針を貫いたことで香港左派の過激な行動は封じ込まれ、混乱は収拾され、社会に安定が戻っている。

 香港左派による反英闘争の背景に、やはり北京における権力闘争が影を落としていた。当時、香港左派の背後に広東省を拠点に中国南部で絶対的影響力を保持していた「広東王」の陶鑄に加え、共産党広東省委第一書記(当時)を務めていた趙紫陽――共に文革派から猛攻撃されていた――の存在を指摘する見方もあった。

 また対外開放直後の1979年には『人民日報』が「香港暴動は、周恩来打倒と周が指揮する統一戦線工作破壊を狙った四人組の策動であり、周の反撃によって暴動は収束した」と報じたことがある。両説が共に勝者の側に立った見解であり、その当否は不明と言わざるを得ない。

 とはいえ、香港における政治的変動に北京における権力闘争が微妙に絡んでいることは、初代の董建華長官以来の歴代行政長官の人選からしても、やはり否定し難い。ならば6月以来の香港の混乱は、北京の最高権力層内部の暗闘に影響されていると考えられないわけではない。混乱の長期化は、そのまま権力闘争の陰湿さを暗示しているのか。やはりここでも、「土地の者」の運命は「強者の意思」に左右されているのだ。

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