かくてイギリスは宗主国として香港に復帰するが、日本占領期間(1941年12月~45年8月)を含め、香港の運命を左右したのは住民の与り知らぬところで働いた「強者の意思」であったわけだ。
立場が逆転した、イギリスと中国
長谷川の香港訪問から70年ほどが過ぎた1980年代初頭、中国が対外開放に踏み切ったことでイギリスとの間で香港返還交渉が始まる。「国際法的に正当な条約によって割譲した香港島と九龍は返還する必要がない。租借した新界のみを、租借期限が切れる1997年に返還すればいい」との方針で臨んだサッチャー首相に対し、当時の最高実力者・鄧小平は「南京、北京の両条約は共にイギリスが軍事力によって強要したもの。国際法上、正当とは認められない」と傲然と言い放ち、香港全域の一括返還を譲らない。
1980年代前半を振り返ってみる。破産一歩手前とも酷評されていたイギリスに対し、中国は世界市場に打って出ようと身構えていた。国際社会における両国の存在感・影響力は清朝末期とは逆転していた。かくて「強者の意思」によって香港全体の「中国回帰」が確定する。ここでも「強者の意思」は香港住民を無視した。
中央政府が示す「一国両制」という「強者の意思」を前にしては、「港人治港(香港人による香港統治)」という香港住民の切なる願いは脆くも潰え去ってしまったのだ。
植民地とはいえ、香港住民が自らの権利を求めるのは当然だろう。地理的に新界は中国大陸と地続きであり、九龍と香港島はヴィクトリア港を挟んで“指呼の間”にある。植民地以前は広東省に所属し、住民の大部分が中国人(主流は広東人)であればこそ中国の国内動向に左右されると共に、中国もまた香港住民の動向に関心を示す。やはり「血は水よりも濃い」のである。
香港で医学を学んだ経験を持つ広東人の孫文を指導者とする革命派が革命の根拠地としていたこともあり、1911年10月の武装蜂起を機に清朝が崩壊し、異民族である満州族支配から解放されたことが伝わるや、香港住民は挙って清朝支配の象徴である弁髪を切り取って捨て去り、「漢族万歳」「西洋人を殺せ」「イギリス人を追い出せ」と叫んだ。
民族意識が高揚し、反英感情が爆発した。インドからの援軍を求めねばならないほどに、香港政庁(植民地政府)は事態収拾に苦慮した。この時に示された香港住民の民族意識の高まりが、その後に繰り返されることになる大規模なストライキへの呼び水となったに違いない。
たとえば1925年に上海の日本紡績工場の労働争議をキッカケにして発生した五・三〇事件だが、中国全土を震撼させると共に、香港を揺さぶった。広州の労働組織の支援を背景に香港の労働者はストライキ(「省港大罷工」)による反英闘争に踏み切った。政治的自由、法律上の平等、普通選挙、労働立法に加え、家賃値下げや居住の自由などの要求を香港政庁に突き付けたのである。
香港政庁が戒厳令を断行したにもかかわらず、労働者は反英闘争を中断しなかった。世界の労働運動史上最長ともいわれるストライキによって、香港は「死の街」と化した。交通や電気など社会インフラは大影響を受け、経済は大打撃を被り、企業家は甚大に損失を苦しめられた。宗主国であるイギリスに大打撃を与えた省港大罷工は、誕生間もない中国共産党によって指導されていたのだ。
香港労働者の生活向上を勝ち取ったと一般に評価される省港大罷工が収束して1年ほどが過ぎた1927年、魯迅は香港を訪れ「再談香港」を残し、末尾を次のように結んでいる。
「香港は一つの島でしかないが、しかしそれは中国のいろいろな土地の、現在と将来の縮図をそのままに描いている、中央には幾人かの外国の御主人がいて、その配下には若干のおべっかをつかう『高等華人』と手先をつとめる奴隷的な同胞の一群がいる。そのほかは、すべて黙々として苦しみにたえている『土地の者』である、苦しみにたえきれるものは、死ぬまでこの植民地にいるし、たえられないものは深山に逃げこむ、苗族や猺族(苗族、猺族ともに中国の少数民族で、主に西南部の山中に住む)が私たちの先輩である。(九月二十九日の夜、海上にて)」(増田渉訳『魯迅選集 第七巻』岩波書店 1973年)
魯迅が香港で目にしたのは、やはり忍従を強いられながらも生きるしかない「土地の者」だった。ならば共産党が指導の正しさを喧伝する省港大罷工を経た後も、「土地の者」の運命に大きな違いは見られなかったことになる。(なお増田が訳す「土地の者」は、原文では「土人」)