2024年7月16日(火)

明治の反知性主義が見た中国

2019年11月28日

やはり満洲の開発のためには日本が力を注ぐしかない

 若者は目前で進む日本の満州経営に対比するかのように、それまでのロシアの満州経営に関心を寄せた。

 ロシアの満州経営は「其計画遠大にして、注意周密」であることは「旅順の築城、大連の築港」もさることながら、やはり「教育事業に於て認むる」べきだ。

 東洋への飛躍という「彼得(ピョートル)大帝以來の宿望を満さんとし」、その準備として大連に高等商業学校を設立し、種々の特典を与え全土から英才を招いた。「満洲を経営する者を満洲に於て教養するは策の最も得たるもの」だ。それというのも学生は「学校の内外に於ける日常生活の間に其地の言語、風俗、人情及経済的の事情に習熟」できるからである。現地教育の利益は「教室内文字の講習に勝ること万々」であり、これこそが「最有効なる直接教授なり」。

 「露人の計画は戦敗の為に頓挫したるが、彼等の用意周到なりしは之によりて察するを得べし」と綴る一方で、日本では東亜同文会が「書院を東京及上海に設け」、日本の学生を上海で、「支那学生は之を東京に迎ふるは是が為なり」とする。日本もロシアに負けずと人材養成に励んでいた。

 また「露人は戦争前満洲各地に学校を設け、清人に露語を教授し、一方には盛に黄白を散じて彼等を懐柔せんと努めたるが如し」。「黄白(カネ)」をばら撒き、アメとムチで人心収攬を図ったゆえに、「清人にして露語に通ずる者随処に多きを発見すべし」。

 戦争に際し、ロシアはロシア語教育を施した「清人を使役し、軍情の偵察、物資の蒐集、材料の輸送に多大の便益を得たるは疑ふべからざる事実」だった。だが戦況が日本の優勢に転ずるや、ロシア語なんぞ出来ないように振る舞い、「今は却て日語の習得に忙しきが如し」。全く、「清人」は機を見るに敏なのだ。

 このような状況に対し、「露人来れば露人に媚ひ、日人来れば日人に従ふ。彼等に国家的精神を求むるは、木に縁つて魚を求むるより難し」とし、ならば「之に代るべき宗教的信仰ありや」と疑問を抱く。

 「今日の満洲の民を以て孔孟の遺教を尊奉する者となすは大なる誤」であり、清朝文化の精華ともいえる万巻の書籍を納めた「奉天の文溯閣と、遼陽の魁星樓」すら荒れるに任せたままだ。

 寺子屋式教育を施すが、実態は識字教育程度で「精神的感化の力は殆失はれたるが如し」。奉天や遼陽の街で書店を覗けば、店頭に並んでいるのは「淫靡なる小説脚本の類」でしかなく、孔孟の教えを軸にした古典などは皆無といっていいほど。満州とは、そういう土地柄だった。

 かくして「民の信ずる所」は儒教でも、仏教でも、ラマ教でも、キリスト教でもない。「拝する所のものは唯黃金あるのみ」。やはり根っからの黄金(オカネ)教だ。

 教師養成のための教育講習会を参観して、「放課後ノラクラ暮らして居た」「彼等は頭から其(教科書)を鵜呑みにして、一字一句を暗誦して居る」「昼寝して蠅につゝかれて居る」と極めて印象を持つが、「彼等の尊大の風といつたら又可笑しい」と呆れ果てる。

 「満洲に国家的精神なく、真宗敎なしとせば教育は、何に依つて統一を求むるべき」か。学校を建設して新しい時代に相応した教育を施そうとも、「統一的精神なくんば如何せん」。もはや処置ナシ、といったところだろう。

 やはり満洲の開発のためには日本が力を注ぐしかない。

 「満洲に於ける邦人の勢力を扶植し、前途経営の基礎を定めんとするには教育事業は一日も忽にすべからず」。それは清人と在留邦人との2つに分けられるが、清人教育に関しては児童には日本の尋常小学校程度の教育を実施し、その上で「高尚の教育を施す」ことのできる教師を養成する大連公學堂を設けた。

 日本語教育に関しては、「露人が露語学堂を設けて露語の普及を謀」ったことを学ぶべきだ。それというのもソフト・パワーの扶植こそが、軍事力・経済力と相乗効果を上げて「満洲に於ける我勢力を永久に確定する所以にして、冥々の裡に偉大なる効果を生ず」るからだ。

 ロシア人の影響は過去のものとなった。とはいえ「満漢人」に任せるわけにはいかない。彼らが「統一あり節制ある一国民と化し、富国強兵の実を挙ぐるが如きは」、やはり遠い将来のこと。だから「満洲の前途は邦人に待つ所大なりと云はざるべからず」。加えて「満洲の開発は我邦自衛の為のみならず、人道の為に必要なり」。

 「満洲以外よりも学生を招」き「満洲の事業を指導すべき人物を養成する高等教育の機関」の必要性を力説しているが、最後に「為政者の忘却すべからざることあり」として、「露人は清人を教育して露語を操らしめたり、然れども彼等を動かしたものは黄金の力なりき」の一言を忘れてはいない。黄金教信徒に対するには黄金しかない、ということだろう。

 600余名の若者は最初の上陸地である大連から旅順、奉天、鉄嶺、遼陽と満州を巡り、安東から朝鮮半島に入り、平壌、開城、京城、水原、大邱と南下し、8月15日に馬関上陸。「最大急行列車に接続して午後二時四十分己斐駅着」。ここで「一行の無事を祝して解散」となる。

■引用は『滿韓修學旅行記念録』(廣島高等師範學校 非賣品 明治40年)に依る

  
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