2024年12月23日(月)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年10月7日

毛沢東の肖像画の上に並ぶ習近平、江沢民(右)、胡錦涛(左)(AP/AFLO)

 いまから70年前の1949年10月1日午後3時、朱徳、劉少奇、周恩来ら建国の元勲を従え天安門の楼上に立った毛沢東は「中華人民共和国中央人民政府は、本日、成立した」と絶叫気味に建国を宣言し、「これで我が民族は他から侮られなくなった」と続けるや、天安門広場に集まった30万人の歓喜が爆発する。「他から侮られなくなった」とは復仇、いわばアヘン戦争をキッカケにして列強から受け続けた屈辱を晴らしたとの高らかな宣言だったろう。

 午後4時を過ぎると、人民解放軍3軍の16万5000人による軍事パレードが始まった。戦闘機11機など全17機の空軍機が轟音を轟かせ飛来するや、毛、朱、劉、周など党と政府の幹部は興奮気味に上空に目をやった。

 夕闇迫る頃、祝賀行事は最高潮に達する。誰もが提灯を手に祝賀行列だ。建国の歓喜が広場の夜空を彩った。午後9時半過ぎ、式典は幕を閉じ歓喜と興奮の1日が終わった。

 ここで注目すべきは軍事パレードの花形を演じた戦車と戦闘機である。砲塔に「功臣号」と記された戦車は日中戦争末期に日本軍から鹵獲した97式中型戦車であり、空に躍った戦闘機もパイロットも共に敗北した日本軍からの“提供”と伝えられる。当時、北京の制空権は国民党軍が掌握していたというから、毛沢東ら新政府首脳陣は不安の中で空を見上げたのかもしれない。建国時の解放軍の装備は、そこまで貧弱極まりないものだった。

 それから70年が過ぎた今年の国慶節である。

 オープンカーから「同志們、辛苦了!(同志諸君、ご苦労!)」と声を掛ける習近平国家主席に対し「首長、好!(最高指揮官ドノ、ご壮健を!)」と応えた解放軍は、すでに対米戦争が可能なほどまでに充実した兵器体系を整えているとの評価も聞かれるほどだ。

 識字率は建国時の20%から96.4%(2015年)へ、平均寿命は35歳から77歳(2018年)へ。飲まず食わずの生活から、日常的に海外旅行を楽しめるようになった。2019年上半期をみても前年比14%増で延べ8129万人余……民生面でも各段の向上を見せる。

 建国直後の中国を襲った最大の試練は、「他から侮られることはなくなった」と胸を張ってから僅か8カ月後の1950年6月に勃発した朝鮮戦争だった。国家建設の前に大國難として立ちはだかった対米戦争を、中国は「抗美援朝」の精神で迎え撃つ。臥薪嘗胆……どのように苦しくても、国家・国民を挙げてアメリカ帝国主義と戦おう、である。

 朝鮮戦争終結から5年が過ぎた1958年、毛沢東は自らの権威と威信を賭けて大躍進政策を打ち出す。社会主義社会を一気に建設し、東側世界の最高指導者を目指したのだ。どうやら一国の経済力を鉄鋼生産量と思い込んでいたフシのある毛沢東は「超英趕美」のスローガンを掲げ、国民を叱咤・激励・督戦した。鉄鋼生産で世界第2位のイギリスを追い越し、第1位のアメリカに追いつこうとしたのだ。

 だが野心的で大胆極まりない試みは、現実を無視したゆえに大失敗に終わる。

 数千万人単位の餓死者を出した悲惨な結果を招いたにもかかわらず、毛沢東は「社会主義建設の経験が未熟だった」と居直った。毛沢東の権威の前に、“世紀の大失政”の責任は不問に付されてしまったのだ。

 中国全土が大躍進の後遺症から脱しつつあった1966年、毛沢東は中国全土を巻き込んで文化大革命を発動する。「毛主席万歳!万歳!万々歳!」の熱狂に翻弄された10年の始まりだった。社会主義が標榜する“科学性”の対極にあるような「成せばなる」式の精神主義に彩られた「自力更生」「為人民服務」が叫ばれ、国民は「私心」「我欲」を断ち切ることを強く求められ、毛沢東が指し示すままに「社会主義的聖人君子」たらんと邁進した。だが国土の荒廃は進み、国力は低下し、民心はささくれ立つばかり。

 共産党政権は文化大革命の責任を「林彪・四人組」に押し付けたままに口を噤み、現在に至っても本格的な文化大革命研究は憚られたままだ。

 当時、中国はアメリカ帝国主義を第一の敵として掲げていたが、それはタテマエでしかなく、ホンネでは長い国境を接する北隣の大国であるソ連だった。毛沢東にとっての最大の脅威は、「社会帝国主義」に変質したソ連からの攻撃である。やはり敵の敵は味方に変じた。毛沢東が、建国以来の仇敵であるアメリカ帝国主義との手打ちを試みたのである。ニクソン米大統領を、北京の中南海の私邸にある書斎に招き寄せたのだ。かくて国際政治の枠組みは中国を軸にして大きく転換した。

 「戦略的に敵を軽視する」ことを説くことの多かった毛沢東は、それまで「アメリカ帝国主義は張り子のトラ(=紙老虎)」と戯画化して語ってきた。だが1972年の米中関係改善によって“紙老虎”はアメリカ帝国主義ではなく、じつは「偉大な領袖毛沢東」に率いられた中国であることが内外に明らかになってしまった。この事実に気がついたからこそ毛沢東は、文化大革命の際に「資本主義の道を歩む実権派No.2」として屠ったはずの鄧小平に“紙老虎”からの脱却を託そうとしたようにも思える。


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