2024年7月16日(火)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年10月7日

毛沢東政治からの脱却

 “紙老虎”と化した共産党は国民に見放されかねない。おそらく当時の中国を蝕んでいた病巣を、鄧小平ほどに深刻に思い悩んでいた指導者はいなかったのではなかったか。「大後退の10年」と形容される文化大革命を誤り導いたことによって動揺・失墜した共産党の権威を再構築・強化するためには、国是を対外閉鎖から対外開放へ、政治の中心を革命から経済に大転換させるしかない。「為人民服務」から「為自己服務」へ。「自力更生」から「他力更生」へ。いわば毛沢東政治からの脱却――これこそ鄧小平が自らに課せた処方箋だったはずだ。

 長く冷え切っていた米中敵対関係は、1972年2月に毛沢東が自らの書斎にニクソン米大統領を迎えたことで緩和に向かう。この動きに促されるかのように、中国は西側の世界に強い関心を示し始める。国境が開かれ、対外姿勢は180度転換した。

 毛沢東が導いた「自力更生」「為人民服務」の30年ほどの間、国民のエネルギーは打ち続く政治闘争に浪費され、結果として辿り着いたのは「貧困の大国」「巨大な北朝鮮」でしかなかった。

 「ヒトが1人生まれたら、口は1つ増えるが、手も2本増える」と、口を消費に手を労働力に例えた毛沢東の「産めよ増やせよ式人口論」が結果として産み出した膨大な余剰人口を、鄧小平は安価な労働力として外国企業に差し出した。ここに豊富な資金と先進技術を持った西側企業が群がり、かくして中国は「世界の工場」へと大変身を遂げたのである。

 この段階で、西側諸国は鄧小平の本心を読み誤った。じつは鄧小平は国民に大きなタガ――経済活動の自由は許すが、政治面では共産党に対する一切の批判は許さない――を嵌めていたのだ。言い換えるなら、「極めて限定された経済面だけの自由放任(レッセフェール)」になろうか。

 経済発展によって、中国の国民は個性のない「中国人民」という巨大な塊から、1人1人の中国人へと生まれ変わる道を歩き始める。収入が増え生活が豊かになれば、独裁ではなく自由と民主が欲しくなる。だが、「経済発展すれば民度が上がり、国民は独裁政権を嫌い民主と自由を求めるはずだ」という西側諸国の狙いは、鄧小平の中国では通用するわけがなかった。

 経済発展が緒に就いた1989年、中国の若者は70年前の1919年の五・四運動の際に叫ばれたスローガン――「中国には徳先生と賽先生はいない」――を持ち出し、「共産党独裁反対」「民主化」の声をあげた。

 “徳先生”の正式名称は「徳莫克拉西(デモクラシー)」で、“賽先生”は「賽因斯(サイエンス)」である。天安門広場に集まった若者たちは、伝統的な封建政権と同じように共産党政権にも「民主と科学」はないことを強く訴えた。「民主と科学」を叫んで挫折した五・四運動の余燼から生まれた共産党ではあるが、40年間(1949年~89年)の治政は、じつは「民主と科学」を“扼殺”し続けていたのだ。そして、今もなお。

 これが共産党政権としての本来の姿なのか。それとも共産党政権を含む中国における権力が伝統的に秘めたカラクリなのか。求めたものは得られず。得られたものは否定すべきものだったとは、共産党独裁政権の持つ原罪というには余りにも皮肉であり、冗談と言うには悲し過ぎる現実というべきだろう。

 1989年春の天安門広場で展開された独裁政権否定の動きを、「最高実力者」と呼ばれていた当時の鄧小平は「和平演変」と呼び、背後に欧米勢力ありと強く反発・警戒しながらも、毛沢東の時代に後退しようという勢力を断固として退けた。そして内外に向かって「南巡講話」を示し、経済発展に一層のムチを当てた。

 国民に日々の豊かな生活を約束することで、共産党の治政に対する不満を封じ込めようというのだ。共産党の命運を経済発展に賭ける一方で、対外姿勢の柱に「韜光養晦(隠忍自重して実力を蓄えろ)」の4文字を据えたのである。

 1990年代末期、鄧小平の対外開放路線を「接軌」の2文字で表し高く評価する声が上がった。

 国際社会の「軌」、つまり中国で「全球化」と呼ぶグローバリゼーションに中国を「接(つな)」いだからこそ、発展したというリクツである。明代中期から数百年にわたって対外閉鎖を続けたことが中国を劣化・貧困化させたと見做し、対外閉鎖がもたらした国力衰退のマイナス・スパイラルを断ち切り対外開放に踏み切ったからこそ、中国の再生が可能になったという主張である。たとえば張学礼は『中国何以説不 ――猛醒的睡獅』(華齢出版社 1996年)で次のように説いていた。 

 「中国は大国だが、過去数百年来の歴史は屈辱の歴史でしかない。当時の中国人は敢えて“不(ノー)”とはいえなかった。20世紀の40年代末になって、世界の東で雷鳴が轟いた。中国人が立ち上がったのだ。だが貧乏という帽子を取り去ることはできなかった。“不”の声が大きく響くことはなかった」

 「新中国成立以後の数10年間、我々は国家の建設に際し奮闘努力を重ねてきた末に、やっと一筋の光明を見出した。そうだ。中国が本当に苦境から抜け出る道は世界の大市場に向かって進むことだ。『社会主義市場経済』という僅か8文字に辿り着くために、我々はたっぷり40年近くの『学費』を払わされた。その原因は、ある種の『モデル』に加え頭に嵌められたタガに絞めつけられていたからだ。(中略)我々は長期間にわたって大きくて過酷な代償を支払わねばならなかった」

 「本当に冴えわたった頭で冷静に対外閉鎖の危険性を見抜き、比類ない胆力と能力と大きな手で閉じられた大門をこじ開けたのは、誰もが知っている鄧小平なのだ。21世紀の中国は自らの新しい文明史を切り開く」

 この張学礼の主張からは、中国の発展を遅らせた毛沢東に対する恨みにも似た思いが伝わって来る。 

 鄧小平以後の江澤民と胡錦濤の両政権は、基本的には鄧小平路線から逸脱することはなかった。


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