2024年11月22日(金)

明治の反知性主義が見た中国

2019年12月7日

「忠誠憂國倜儻卓識の士」は既に遠く時代の彼方に

 「支那の事到底日本人の心眼を以て忖度すへからさるなり」と考える阿川は、清国にやって来る日本人に目を向けた。

 「近来支那に来るの人」は多いが、やはり時期によって違いが見受けられる。最初にやって来た人は「忠誠憂国倜儻卓識の士」であり、次にやって来たのが「麤放無頼浅見寡聞の徒」、そして「現今に至りては則ち小心窄胸委瑣齷齪の倫のみ」となる。

 第一世代の「忠誠憂國倜儻卓識の士」は艱難辛苦の末に、「上は政教人情より下は風俗習慣の微に到るまで」を詳細に捉え、日本人を啓蒙し、後からやって来る者を善導しようとした。「其の辛労、其の功德共に堙滅すべからざるものあり」。後に続く者のために苦労に苦労を重ねた功労者である。

 第二世代の「麤放なる者は心純ならず、寡聞なるものは、慮遠からず、不純の心を以て物を見る」から、軽挙妄動して軽薄短慮に傾く。いわば腰が定まらず考えも浅いオッチョコチョイ。にもかかわらず功を欲し、「世人の感動を望む」。地に足が着いていないから、「事を企てば則ち敗れ、人に謀れば則ち応せず」。つまりは失敗を繰り返すしかない。

 そこで感じた虚しさの裏返しで「大言放語、空談虚論、盛んに東洋の大勢を説き、肆まに対清の議を籌り、濫りに東方策士を以て自任す」。いわば虚言癖のような手合いこそ「心事最為可憫」である。つまりは可哀想な心の持主ということになる。

 第三世代ともいえる「小心齷齪の倫に至りては固より、胸に経綸の雄図なく、心に起案の画策なく、又焉んぞ山川を跋渉するの勇気」もない。小心翼々として心に何らの見通しも計画も、ましてや覚悟もないから、ああだこうだと小賢しい詮索に奔るばかり。

 偶に「一奇を得れば則ち嬉び、謂へらく吾能く事情に通ずと」。まぐれ当たりでもしようものなら大喜びして事情通だと自慢する。なかには商売を考えてやって来る者もいるが、「其資本を質さば則ち曰く未ださだまらず」。つまり十分な資本を用意しているわけでもなく自覚も足りない。そればかりか「僅かに清語を独習、地図の点撿に過ぎず」。こういった手合いは「一会社の社員と為り、一商店の小僧たるを得ば」、それで満足するばかりだ。

 かくて「嗟乎蕃籬之鷦鷦曷以鳳凰之心、溝澮之蝘蜒豈能知亀竜之志哉、巳矣哉」と、難解な漢語を連ねて悲憤慷慨する。

 じつは明治27(1894)年に香港経由でシャム(タイ)に転じた阿川は、明治33(1900)年にシンガポールで客死するまでは専らタイを拠点に動いていた。ということは阿川が3つに分類した「近来支那に来るの人」とは、明治20年代半ばまでの訪問者と考えて間違いないだろう。

 「支那に来るの人」を見るに、最初に乗り込んで行った「忠誠憂國倜儻卓識の士」は既に遠く時代の彼方に去り、「東方策士を以て自任す」る“マユツバもの”を経て「蕃籬之鷦鷦」や「溝澮之蝘蜒」、つまりは一知半解の“半端人足”の類が主流になっていった。明治半ばでこれなら、以後は推して知る可し、ということになろうか。だが、これは飽くまでも阿川の基準であはあるが。

注記:引用は阿川太良の『支那實見録』(明治43年)に依った。

  
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