2023年2月6日(月)

明治の反知性主義が見た中国

2019年12月7日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「忠誠憂國倜儻卓識の士」は既に遠く時代の彼方に

 「支那の事到底日本人の心眼を以て忖度すへからさるなり」と考える阿川は、清国にやって来る日本人に目を向けた。

 「近来支那に来るの人」は多いが、やはり時期によって違いが見受けられる。最初にやって来た人は「忠誠憂国倜儻卓識の士」であり、次にやって来たのが「麤放無頼浅見寡聞の徒」、そして「現今に至りては則ち小心窄胸委瑣齷齪の倫のみ」となる。

 第一世代の「忠誠憂國倜儻卓識の士」は艱難辛苦の末に、「上は政教人情より下は風俗習慣の微に到るまで」を詳細に捉え、日本人を啓蒙し、後からやって来る者を善導しようとした。「其の辛労、其の功德共に堙滅すべからざるものあり」。後に続く者のために苦労に苦労を重ねた功労者である。

 第二世代の「麤放なる者は心純ならず、寡聞なるものは、慮遠からず、不純の心を以て物を見る」から、軽挙妄動して軽薄短慮に傾く。いわば腰が定まらず考えも浅いオッチョコチョイ。にもかかわらず功を欲し、「世人の感動を望む」。地に足が着いていないから、「事を企てば則ち敗れ、人に謀れば則ち応せず」。つまりは失敗を繰り返すしかない。

 そこで感じた虚しさの裏返しで「大言放語、空談虚論、盛んに東洋の大勢を説き、肆まに対清の議を籌り、濫りに東方策士を以て自任す」。いわば虚言癖のような手合いこそ「心事最為可憫」である。つまりは可哀想な心の持主ということになる。

 第三世代ともいえる「小心齷齪の倫に至りては固より、胸に経綸の雄図なく、心に起案の画策なく、又焉んぞ山川を跋渉するの勇気」もない。小心翼々として心に何らの見通しも計画も、ましてや覚悟もないから、ああだこうだと小賢しい詮索に奔るばかり。

 偶に「一奇を得れば則ち嬉び、謂へらく吾能く事情に通ずと」。まぐれ当たりでもしようものなら大喜びして事情通だと自慢する。なかには商売を考えてやって来る者もいるが、「其資本を質さば則ち曰く未ださだまらず」。つまり十分な資本を用意しているわけでもなく自覚も足りない。そればかりか「僅かに清語を独習、地図の点撿に過ぎず」。こういった手合いは「一会社の社員と為り、一商店の小僧たるを得ば」、それで満足するばかりだ。

 かくて「嗟乎蕃籬之鷦鷦曷以鳳凰之心、溝澮之蝘蜒豈能知亀竜之志哉、巳矣哉」と、難解な漢語を連ねて悲憤慷慨する。

 じつは明治27(1894)年に香港経由でシャム(タイ)に転じた阿川は、明治33(1900)年にシンガポールで客死するまでは専らタイを拠点に動いていた。ということは阿川が3つに分類した「近来支那に来るの人」とは、明治20年代半ばまでの訪問者と考えて間違いないだろう。

 「支那に来るの人」を見るに、最初に乗り込んで行った「忠誠憂國倜儻卓識の士」は既に遠く時代の彼方に去り、「東方策士を以て自任す」る“マユツバもの”を経て「蕃籬之鷦鷦」や「溝澮之蝘蜒」、つまりは一知半解の“半端人足”の類が主流になっていった。明治半ばでこれなら、以後は推して知る可し、ということになろうか。だが、これは飽くまでも阿川の基準であはあるが。

注記:引用は阿川太良の『支那實見録』(明治43年)に依った。

  
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