西郷の征韓論に端を発した「明治六年政変」が発生した1873年に土佐に生まれた川田鐵彌が、「山海関、天津を経て、北京に入り、北清の状況に親しく接したる後」、「南清の一大動脈とも云ふべき揚子江」辺りを旅したのは、「明治最終の年月」であったというから、明治44(1911)年である。
「彼の山を玩び、彼の水を掬み、風韻を異にせるを楽しむ位の目論見であったから」、辛亥革命・清朝崩壊・中華民国建国と同時進行的に起こっていた隣国の激動には、余り関心を示そうとはしない。
当時、「支那旅行に出掛くるには、別に旅行券を其筋より貰受くる必要もないから、思ひ立つたが吉日で、其の日にも、出発すれば善い訳であ」った。そのうえ中国各地で日本人が旅館を経営していたから、「其処に宿泊すれば、支那語や英語などがあやつれなくとも、格別の不自由はない」。だが、問題は全国で統一されていない貨幣である。
たとえば「自分が奉天で取り換へて貰つた紙幣は、反古かと思はれる位、楽書(らくがき)が沢山あつたから、其の理由を聞くと、楽書の多い紙幣は、方々の人の手に渡つた都度、其の家の主人が、氏名を認め、偽物でないことを証拠立てヽあるから、却つて安心だと聞いて、二度吃驚し」ている。
四半世紀ほどの昔、インドを気儘に旅したことがある。両替の際、さすがに「楽書」はないものの小汚いボロボロの、しかもホチキスで綴じられた紙幣を渡され閉口したことを思い出す。だが川田の経験に従うなら、紙幣に開けられたホチキスの針孔は紙幣の真贋の基準――ボロボロで針孔が多いほどに多くの人の手を経ている。だから偽札ではない――となるはずだ。
「何れの名勝にまゐつても、堂宇には、塵埃が積もり、庭園には、雑草が生ひ茂」るばかり。壊れていても修理をする様子はみられない。だから「立派な歴史を有する勝地が、年毎に、空しく荒れ果て」る始末である。
都市の道路や下水も同じで「一時は立派に構へても、修繕を怠るから」荒れるに任せ、「不潔極まる有様である」。どうやら「風致保存などと云へる奥床しい考へは、支那人の頭には、皆無である」。加えて彼らは戸外の自然を好まず、「人口の美を喜ぶ風があつて、天然の美を解する士に乏しい」。これを要するに、日本人とは趣味嗜好を異にするということだろう。
一般の人々に接しての感情は、ともかくも劣悪。「或人の書」から、次のように引用している。だが、「或人」は川田自身と考えられないこともない。
「彼等は、動物の親類である、到る処、何も選ばず、之を貪りて、不潔を厭はざる所は豚の如く。群を為しても、臆病なる所は羊の如く。狗の狺々(インイン=犬の咆哮/ウ~ッ、ワンッ)として骨を争ふ如くに、其の状の野卑なる。尨大にして、ボンヤリ然たる所は、頗る駱駝に酷似して居る。騾馬の臆病にして悲鳴する。驢の橫着にして意地悪き、鷄の多情なる、小鳥の人に養はれて平気なるなど支那人を説明し得て妙である」と。こうなると、もはや取り付く島もない。
元来が教育者である川田は、「斯(かか)る人々と交り、斯る人々を教へ導き、同化したかの如き風を保ちながら、以心伝心の中に、物の道理を解せる人士を造りたいものである」との抱負を持った。
やがて教化の末に中国に「物の道理を解せる人士」が満ち溢れたなら、「人口増加の余、生存競争が激烈になるに連れ、人類として、最後の勝利を占むるのではなからうか」と考えた。つまり「物の道理を解せる人士」に満ちた時、中国は世界の覇者になると予想した。
世界が暗黒に陥る
さらに文明国にとって最も脅威となるのは「寒暑を厭はず、簡易生活に慣れた支那苦力の類」であると続ける。迫害に遭おうが、彼らは“我が道”を行く。やがてこの世界に「窮鼠遂に猫を咬むの日」がやって来る。その時、「世界が、暗黒時代に陷るであらう」と。
現代の中国における華僑・華人問題に関する代表的研究者の陳碧笙は、天安門事件から2年が過ぎた1991年に『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社)を出版し、海外に漢族系(華僑・華人)が存在するのは「歴史的にも現状からみても、中華民族が海外に大移動を重ねたからであり、北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへ、南宋から現代まで移動が停止することはない。時代が下るごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」と記している。
まさに1970年代末に鄧小平が断行した対外開放によって、多くの中国人が新しい生活の場を求めて海外に移住し、豊かになった膨大な数の中国人が世界各地の観光地に溢れるようになった。対外開放策が必然的にもたらした中国内外における「移動」こそ、今回の新型コロナウイルス感染者急拡大の背景にあるに違いない。毛沢東が断行した対外閉鎖が続き、中国人の海外における移動が厳しく制限されたままであったら、今回のように被害範囲が中国全土はもちろんのこと地球大に拡がることはなかったはずだ。
どうやら川田は、100年ほど先の21世紀初頭の現在の世界を予見していた。こう言ったら、やはり褒めすぎだろうか。
中国を理解できない日本の欠陥
次いで川田は、日本における中国理解の欠陥を指摘する。
「支那は、差当り、家族制度の下に、極端な個人主義が発達した、利己主義一点張りの、面白い国柄である」。たしかに長所も短所もあるが、「我儘一方の国民では、国として、立派な体面を維持することは、覚束ない」。だが「長く睡つた支那も、此頃漸く眼が醒め」てきた。その証拠に列強諸国に奪われた利権を回収し、法制度の近代化に動き出した。だから、「やがて、国民的自覚の下に、頭を持ち上げないとも限らぬ」。やはり日本人は「自ら支那人になつた気で、静に観察せねば、支那の真相は分らぬ」のである。
では、なぜ「今迄、日本人が支那の真相を誤解して居たの」か。それは「日本化された漢学で、直に支那を早合点した結果である」。
ここで時代を一気に文化大革命の時代に下ってみたい。
当時の日本を代表する毛沢東主義信奉者が総力を結集して編んだと思われる『現代中国事典』(講談社現代新書 昭和47年)の「はじめに」に、「日本人は明治以来、中国について見そこないの歴史をかさねてきた」。それというのも「日本人の抱く中国像が、論語や孟子や古文物をとおして構成され」てきたからだ――との‟猛省”が記されている。
川田が「日本化された漢学で、直に支那を早合点した結果」と指摘してから長い時間が過ぎてもなお、日本は「中国について見そこないの歴史をかさねてきた」というのだ。なぜだろう。
川田は、こう考える。
「元来正直な日本人などは」、「書物など読むにも、用心して之を見ないと」、「支那人の書いた書物に、読まれて仕舞ふようになる」。歴代王朝の足跡を記録した歴史書である「正史を綴るにしても」、「仰山に書き立てゝあるから、余程、割引をしてかゝらないと、物によると、大変な思い違いをする」。
川田は、古くから日本人は「大変な思い違い」を繰り返して来たし、「支那文学の妙が、空想に任せて、文字を濫用するにあることを忘れてはなら」と指摘する。
実は「戦争をするにも、この流儀であるから」、たとえば日清戦争の際、清国側の布令の激烈・大仰な言葉遣いに眩惑され、日本側は「敵の真相を誤解して、大事を取り過ぎた」。
ともあれ日清戦争の結果、「支那は、眠れる獅子でなくて、獅子の皮を被つて居るに止まると云ふことが分つたから」、イギリス、フランス、ロシア、ドイツは猛禽の如く「眠れる獅子」に襲い掛かることとなった。