佐藤善治郎は1910(明治43)年7月28日に横浜を発ち、上海を振り出しに30日ほどをかけて南京、漢口、蘇州、杭州などを廻っている。
帰国直前の8月22日に日韓併合条約が締結され、翌年の年明け早々には大逆事件に関連し幸徳秋水ら24被告に死刑判決が下された。その翌年の1912年7月30日に明治天皇が崩御され、明治から大正へと改元された。中国では、亡国の道をひた走る清朝に止めを刺した辛亥革命の起点となった武昌蜂起は1911年10月。明治天皇崩御の10カ月ほど前のことだった。
日本は明治から大正へ、中国は清国からアジア最初の立憲共和政体の中華民国へ。両国ともに新しい時代を迎えようとしていた。
「清国、今や列国競争場裡の落伍者となり、国運陵夷、人情荒廃して殆んど見るべきものなし」。そこで日本では欧米を学ぼうとするブームが起きる一方で、清国など見向きもしない。欧米の事情は広く伝わっているが、「清国の事情の意外に知られざるあり」。だが果して、これでいいのか。亡国の瀬戸際に立っているからこそ「清国の事情」を知るべきだ。
「南清の地は、支那の宝庫」であり、「本邦と一葦帯水を隔つるのみ」の地理関係にある。加えて「世界列強皆眼を茲に注ぎ、着実なる経営を為」している。「東洋の盟主を以て自ら任ずる国民」であるなら、やはり長江流域に経済的影響力を扶植すべきであり、その前提として一帯の事情把握が急務である。
加えて歴史的に「支那は我先進国」であり、我が国は多くを学び「現代文化の基礎」とした。いまや立場は逆転し、「東洋の盟主として起てる我国民」は数百人の先生を派遣し、「二千の留学生を受け」入れている。我が国は「大いに彼国を開発誘導するの任務」を果たすべきだ。
――こんな思いを抱いて海を渡った佐藤の前に、「東洋第一の大港、経済の中心で、貿易額は支那全国の過半を占」める上海が姿を現した。
目に入る大廈高楼の「畏ろしい威勢」に驚くが、「それが我国のものであると聴いて雀躍した」。さすがに「東洋の盟主」だ。だが、外国居留民の1万6000人余の半数を日本人が占めるにもかかわらず、租界行政を担当する参事会は「英国人七名、米国人一名、独逸人一名」によって運営され、日本人は関わることができない。「これを見ても我国人は甚だ資力を有せぬといふ事が言へる」。「其原因は一は資本を持つもの少なく、一は年未だ浅き故である」。これが上海で目にした「東洋の盟主」の現実であった。
実際に「長江流域に経済的影響力を扶植」することに関しては、欧米列強は日本より遥かに先行していた。いくら声高に「東洋の盟主」を叫んでみても、実力の伴わない井の中の蛙では仕方がない。
「支那に於ける列強の勢力を見んに」、北方は「露国の勢力が瀰漫している」。「南満洲は日本の」、「山東省附近は独逸の」、「長江は英国の」、「安南に近き広東広西地方は仏国の」、それぞれの「勢力地である」。
「本邦の成功せる居留地は、上海、天津、漢口」の3都市であり、このうちの2つは「支那の宝庫たる揚子江の谷」に位置する。じつは揚子江一帯は「英国の勢力地ではあるが、近頃は独逸が能く住民の嗜好を研究して物産を売り込んで居る」し、「その力は侮ることは出来ぬ」。やはり日本にとってドイツは要注意の存在だ。これまでも、そしてこれからも。
上海には17カ国が領事館を置いて「商業を競争して居る有様であるから」、やはり「後進者たる日本は、運命を開くには大に覚悟せねばならぬ」。距離的にも近い我が国からは、日清・日露の両戦争を経て「国家の発展するに連れて続々と支那に入り込む」ことから長江沿岸においては「日本居留民は欧米諸国の居留民の総数と相頡頏して居」る。
たとえば上海の我が居留民の数は日清戦争終了時の1895年には250人であったのが、日露戦争が終わった1905年には2100人と10年で9倍ほどに増加し、佐藤が旅行した1910年になると8000人に膨れ上がっていた。だが数では劣るものの、「欧米人の経営は六七十年来の経営である」。
日本は居留民の数で圧倒するが、総合的な影響力では欧米に遥かに劣る。それというのも、「決して人種が劣等であるのではない。財力と計画との基礎が乏しいからである」。
在留邦人の中には、日本で失敗し逃げるようにして海を渡った者も少なくない。さらには「居住後年を経ること尠く、経営の基礎が薄弱である」。
このような日本人に対し、「欧米人は数十年来相当の資本」を背景にして、「数多の資本を投じて支那人を強化し、以て基礎を確実に」している。彼らは「本邦人に比して資本を携へ来つて、茲に活動し、又永住する者が多」く、そのうえ「宣教師などは支那の貧民児童を集めて慈善教育を施し、或は教会の醵金によりて病院を起し、美名の下に自国の教化を拡げ、勢力を張るが如き」である。いわば豊富な資本を背景に、現地人を採用し現地社会に入り込み、経営の裾野を広げる努力を積み重ねている。短兵急に結論を求めない、ということだろう。
一方、「本邦人は唯自己の経営に傾注し、未だ欧米人の如き経営の地位に達していない」から、日本人が豊富な資金と経験に裏打ちされた欧米人に伍していくのは容易くはない。だが、「多人数の国民が外国にて生活の資を得るだけでも国家の慶事である」とする。ということは当時も「外国にて生活の資を得る」日本人が少なかったということか。
とはいえ日本政府の支援もあり「居留民は増加し、運輸貿易事業、租界の経営も着々とその歩を進むれども」、イギリス人やドイツ人と比較すると「甚だ思はしくはない」。日清間は地理的には一衣帯水、歴史・文化的には同文同種、そのうえ日本は「東洋の盟主を自ら任じている」。だが長江以南の実情はイギリスはおろか「動もすれば独逸の圧倒する処」も見られるほどだ。であればこそ「更に大いなる覚悟を要すると思う」。
それというのも、ドイツ人は「支那人の嗜好と需要とを研究し」、彼らの感覚にピッタリの製品を売り込んでいる。これに対し「本邦人は需要を研究すること少なく、よい加減の品物を製造して送りつけ」、売れなかったらその罪を「買手に帰するといふ傾がある」。
そこで佐藤は、「蓋し(けだし=思うに)一省内に於てすら風俗習慣を異にする支那であるから、得意巡りをして需要嗜好等を研究し、大いに我対清貿易を盛にするを必要と思ふ」と、市場と民情調査の徹底を提言する。中国市場における日独企業の対応の違いは、はたして現在にも通じるのだろうか。
加えて佐藤は、日本が「油断すれば支那に大工業が起つて本邦輸出を絶つのみか逆に輸入する事にもなるであらう。大いに覚悟せねばならぬ」と“警句”を発した。
対清貿易・通商関係についての佐藤の考えは、それから1世紀ほどが過ぎた現在でも十分に通用するように思う。もっとも一衣帯水、同文同種だけは余計だが。
佐藤は街を歩いた。先ずは夜の上海である。
「彼支那人は昼間はさんざん外国人のために抑圧せられて居るが、夜陰に乗して多人数徒党を組んで外人の所持品を掠奪する等の事がある」。「外人の所持品を掠奪」した後、彼らは「租界外に逃げる。租界外は租界の警察權は及ばぬ。支那の警察へ頼んでも何にもならない。唯泣き寝入りとなるのみ」。
そういえば政治=権力に対する彼らの対処法は「上に政策あれば、下に対策あり」だといわれるが、「昼間はさんざん外国人のために抑圧せられて居る」ゆえに、夜陰に乗じて「外人の所持品を掠奪」して外国の領事警察の警察権の及ばない租界外に逃げてしまうというのも、彼らなりの知恵を働かせた対策というものだろう。
上海から長江を遡った南京では、街中の処刑場に足が向いた。
「支那ではろくに裁判といふ事はしない。故に外人と面倒なる事を引起したる者や、多くの物を盗みし者〔中略〕を生存させて置くのは面倒だから、チヨキリとやつて仕舞ふ。誠に手軽な処置である。群衆は平気で之を見、饅頭を持ち行きてその血に湿し、薬とするといふ事である」。まさに魯迅が『薬』で描き出した世界が、そのまま見られたわけだ。
次いで喧嘩だ。日本人の「男は街路に出て、支那人と痛く罵り合つて居つた。やがて横面をピシャンとや」って「躍りかかれば支那人の仲裁者が出来て之を遮る」。数百人が周りを取り巻く。日本人は「仲裁者に組み附きながら『なんだチャンコロの二百匹や三百匹やつて来たつて日本男児だぞ。腕には鋼がはいつて居るぞ』なんてやつて居る。支那人も罵つているが何だかわからない」。「本邦ならば袋叩きにされて仕舞ふべきを、本邦人は支那では斯る気熖でやつて居る」。
後に現地の事情に明るい日本人から「決して支那人は日本人に手向ひはせぬ。又利益のない事には手出しする様な弥次馬はない。彼仲裁者も後には銭を貰ひに来る。日本人も斯る際には幾らか与へるから、喧嘩をしても結局はもうけられて仕舞ふ」と説明された。「腕には鋼がはいつて居るぞ」などと腕まくりしてイキがってみたところで、「喧嘩をしても結局はもうけられて仕舞ふ」わけだから、骨折り損の草臥れ儲けが関の山というころか。
かくて佐藤は「国民性の差は恐ろしいものである」と得心するしかなかった。
「二三の支那新聞を買つて見」て、日本で洪水が発生したことを知った時のことである。
「東洋の大洪水」と題された記事は、「本年はハレー彗星が出たから、世界何れの国か其禍に罹るに相違ないと思つて居つた処が、日本が其禍を受けた」と書き出され、日本各地の被害状況を詳細に報じた後、「世界国多し。而して日本独り災害を受けしは何故ぞや。蓋し日本は奸邪の国である。嚮には日俄協約を以て満洲の利権を収め、今又韓国が合併すとの風説がある。天の日本に災する亦宜ならずや」と記されていた。
この記事によれば、日本が洪水に襲われた原因は「満洲の利権を収め」、日韓併合を強行するような「奸邪の国である」からであり、「天の日本に災」するのは当然。つまり洪水は天罰であり自業自得ということになるらしい。また日韓併合に関し、「韓国はもと支那の属報たりと説き起して悲憤慷慨の筆を振つて居」た記事もあった。
因みに、以上は日韓併合が正式に実施された1910年8月29日より10日ほど前の新聞からである。それにしても佐藤が目にした「二三の支那新聞」の記事から判断するなら、本来は清国に属する満州や韓国を日本が収めたことに、彼らは余ほど我慢がならなかったということだろう。
ここでも「國民性の差」を感じた佐藤は、「清国人には左様に感ぜらるゝかと考え」るしかなかった。
佐藤は「支那の国民性の最も著しきは、利己的であるという事である」と説く。それというのも「凡ての人事的現象は之より演繹することが出来る」からであり、それゆえに「他人の幸福、国の利害などいふ事は念頭になく、唯利益一点張である」。彼らは基本的には「物事に冷淡である」が、「利の問題となれば」一変する。
「血液は沸騰」し「怠惰なる彼等も勉強家とな」る。そこで「利の為には死をも辞せず、死して而して悔い」ることはない。たしかに信用を重んずるが、彼らに本来的に備わっていたものではなく、じつは「唯貿易商が外人と折衝して得たる経験」から体得したにすぎない。つまり信用は利益に通じるということのようだ。信用は「全く利益のため」でしかないということのようだ。
彼らは「実に心と文字との懸隔」に生きる。ハラとクチは違うのだ。たしかに孔子や孟子は「利を排斥」することを力説した。それというのも孔孟の時代の「国民が利を重んずるから」こそ、孔孟は「真面目になつて之を排斥した」のである。だが現実は数千年来、孔孟の願いが無意味であったことを教えている。彼らの「思想と文字文章とは一致しない」のである。ところが日本人は、孔孟が説くところを真に受け、現実が間違っていると思い込んだままに時を過ごしてしまった。まさに孔孟の説こそが、日本にとっては躓きの石だったのである。
「支那人は外交辞令に巧みなりといふ。成程これは慥に(たしかに)本邦人などの及ぶ処ではない。容貌を和らげ巧みに人に近づき、諄々(くどくど)として語るなど実に感心」ではあるが、「其の嘘には驚く」ばかり。「誰も始めて支那人に遇へば快感を覚ふるが」、やはり「永く友情を続ける事は甚少ない」のも当たり前だ。