明治の反知性主義が見た中国

2020年2月9日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 前田利定は明治45(1912)年5月末に神戸を発ち、上海、蘇州、南京、漢口、北京、天津、営口、大連、旅順、長春、ハルピン、奉天を回る。前後40日ほど。中華民国建国直後の混乱期の旅であった。

 1912年の元旦、革命派の領袖である孫文を臨時大総統とするアジア初の立憲共和政体の中華民国が発足する。革命派が掲げた「駆除韃虜、恢復中華(異民族を追い払い、中華を取り戻せ)」が実現した瞬間だった。前年の1911年10月10日に勃発した武装蜂起を起点とした辛亥革命によって、異民族である満州族が17世紀半ばに“神聖なる中華の地”に樹立した清朝は崩壊したのである。

 3月には孫文に代わって袁世凱が第2代臨時大総統に就任した。だが袁世凱を頂点とする保守派と孫文を戴く革命派による政権をめぐって激化する確執、革命派内での政治路線を巡る暗闘、さらに各地に割拠する軍閥の利害対立、これに中国利権に群がる列強間の策動と対立が加わり、中華民国の前途には暗雲が重く垂れ込めていた。

 現地を歩いた前田が最初に気づかされたのは、中国における列強間の利権争いに困惑する日本の姿である。

 先ずは上海でのことだ。

 たしかに通商の上で「我国は第二位の優位を占むるとは云へ英国に比すれば其差」は歴然としている。とは言え、1840年のアヘン戦争を機に上海に「数十年來蟠踞」しているイギリスに対し、日本が「中清殊に長江方面に注目着手」したのは最近であることを考えれば、「目覚ましき発展をなした」と認めるべきでもあろう。

 だが、「只侮るべからざるは独米の二国殊に独逸人の質素勤勉熱心の所謂独逸魂に御座候」。だから彼らには「緊褌一番」で取り組むべきだ。ともかくも「新進気鋭の独逸の元気侮るべからず」であり、であればこそ「質素勤勉熱心の所謂独逸魂」には注意の上にも注意が必要だ。中国を間に挟んで因縁浅からざる日独関係は、今を1世紀以上を遡った当時から現在に続いているのである。

 長江を遡って「英国居留地のある九江に着」いた前田は、当時の日本外交の柱とされていた日英同盟の現実を思い知らされる。

 「日英同盟は結構なること」だが、「余りに同盟だなぞと気を許し居る」ことも、ましてや「あまりに英国に気兼ねする」ことも日本にとってマイナスでしかない。

 「(日本企業の)日清汽船会社の支店は立派に建てられ候」ではあるが、すぐ近くに専用埠頭を設置することすら出来ない。それというのも「英人より制限せられて」いるからであり、そこで「遥か川上の甚だ不利なる水面を利用せねばならぬよう余儀なくせられ居」る始末だ。じつに「痛恨事に御座候」である。同盟国であればこそ、こういった「意地わるき制限圧迫を受けぬ様」に「官民共に努力なされ度」し。

 「英人は遠慮なく長江の先輩者たることを鼻にかけて我侭を働くのに」対し、「日本人は馬鹿正直に内気で気兼ばかりして居る」。これは中国における日本企業のビジネス戦略から考えても決して得策ではない。だから官民合わせて渾身の努力を重ねるべきだろうが、残念ながら努力の跡が見られない。

 「意地わるき制限圧迫を受け」ようとも、同盟を結ぶ相手国が「我侭を働くのに日本人は馬鹿正直に内気で気兼ばかりして居る」――こんな姿に、日米同盟下の現在が投影されてしまうから不思議だ。同盟関係にありながら、なぜ日本は甘んじて「意地わるき制限圧迫を受け」なければならないのか。

 列強による「長江々上の角逐」においても、日本は国益第一に振る舞えない。

 列強は「支那を啓発誘尋し」、近代化を進め経済力を向上させたうえで自国の利益に結び付けようとしている。従来から清国各地で「交通上の利権政策」を争っており、列強は「長江々上に於て多年激烈なる商戦をなし」ているのも、じつは長江こそが中国中央部の流通の大動脈であり、中国利権のカギを握っているからだ。

 中国全土の利権を左右する長江における「水上権」を巡る列強間の争いは、わけても日清戦争後の10年間に熾烈を極めた。

 長江における日本勢の振る舞いを見るに、列強に伍して経営を続けているのは「独り日清汽船会社のみに御座候」。同社は「英清独仏諸外国の有力なる諸会社と商戦を開始し孤軍奮闘血戦」を重ね、「多年遂に凡百の艱難に打ち克ち今や大局に於て長江々上優位を占めつつあ」り、同社の旗は「長江万里の風に翩翻として旭東新進国の勢威の隆々たるを示し」ている。

 自国を「旭東新進国」と呼ぶ姿から、列強に伍して国際政治の上で重きをなしつつあった当時の日本の高揚する国民感情を読み取ることができるだろう。

 とはいうものの、相変わらず日本はイギリスに対して「馬鹿正直に内気で気兼ばかりして居る」。税関業務にせよ船着き場の問題にせよ、日清汽船はイギリスなどに較べれば「甚だ割の悪るき事多」い。「何にしろ英吉利は今や下り坂とは申すものゝ流石数十年来の土台堅うして加ふるに長江の古顔」であり、そこで「諸事都合よく振舞」うのであった。だから、日本側は「人知らぬ暗々裏に不利不便を忍ばざるべからざるもの」がある。

 それにしても、「諸事都合よく振舞」う列強諸国に「比し甚だ割の悪るき事多」い日本は、なぜいつまでも「人知らぬ暗々裏に不利不便を忍」ばなければならないのか。おそらく躍進する「旭東新進国」を苦々しく思う点において、列強の思惑が一致していたのだろう。日本は独り蚊帳の外、いわば多勢に無勢ということだ。

 前田は、旅の先々で日本では知ることのなかった革命の実態を目にする。

 先ずは長江中流域に位置し、中国中央部をネットワークする奔る陸運(鉄道)と水運のハブである漢口でのことだ。

武漢市のダウンタウン(liu rui/gettyimages)

武漢三鎮から発足した武漢市
近代化の中心であり、辛亥革命発祥地

 ちなみに、長江と北から長江に注ぐ漢水を挟んで鼎立する漢口、漢陽、武昌の3地は古くから「武漢三鎮」と総称されていたが、1954年に武漢市として発足した。現在、世界を混乱に陥れている新型コロナウイルスの震源である武漢である。

 ここで前田の旅から少し離れ、新型コロナウイルス問題理解の一助として、中国の近現代史で武漢が演じた役割を簡単に振り返っておきたい。それというのも武漢は変化する中国社会の最先端を奔ってきた都市であるからだ。

 先ず武漢は、19世紀後半の清朝末期に展開された近代工業化(「洋務運動」)の中心として内外の脚光を浴びる。交通の要衝に加え、周辺に有望な鉄鉱山が発見されたからである。いわば清末近代化の最先端都市であった。

 武漢は辛亥革命発祥地でもある。ここに駐屯する官軍(清朝政府軍)内に組織された「新軍」を名乗る革命派が起こした爆弾事件によって革命が誘発され、やがて清朝は崩壊する。いわば武漢は中国の新しい時代を切り開いたのである。

 中国における熾烈な利権争いをはじめた西欧列強のなかで、イギリスが先行する。これに挑んだのがロシアとフランスであり、両国は手を結び武漢と北京の間に京漢線と呼ばれる鉄道を敷設し、武漢を起点に南北からイギリス利権の分断を狙う。武漢は列強による中国侵略のホット・ポイントでもあった。

 日中戦争時、内陸奥地の重慶に逃げ込んだ蔣介石政権を追撃するため、武漢は日本軍にとっての最重要の戦略拠となっていた。

 建国後の毛沢東政治を語るうえでも、やはり武漢は重要な役割を担っている。

 イデオロギー対立が引き金となってソ連からの技術援助を断たれた中国ではあったが、長江に橋を架け南北に分断された国土を結ぶ歴史的偉業を独力で成し遂げた。1957年のことである。上下二層の「武漢長江大橋」の名前と共に、武漢は毛沢東思想の柱である「自力更生」の正しさの輝かしき象徴となった。

 それから10年が過ぎた1967年、中国全土を興奮と混乱の坩堝に叩き込んだ文化大革命を左右しかねないほどの「武漢事件」が発生する。中央から派遣された文革派と「百万雄師」を名乗る地元保守勢力が武漢を舞台に激しく対立し、緊張状態が続く。最終的に毛沢東ら文革派は強硬手段によって劣勢を挽回させるが、一歩間違って文革派が敗北していたら、その後の中国情勢は大きく変わっていたに違いない。武漢は、その後に続く文革の帰趨を、いや中国の運命を左右したといっても過言ではない。

 1970年代に入って巻き起こった空前の「日中友好ブーム」に煽られるかのように、新日鉄を筆頭とする日本財界主流は中国に対する経済建設協力にのめり込んでいった。その象徴が武漢製鉄所近代化への全面協力である。建国以来の最大級の西側技術導入を実現させた時点で「子々孫々までに日中友好」の舞台となった武漢は、また毛沢東式の「自力更生」路線の破綻を示し、やがて始まる対外開放への序曲を奏でるのであった。

 ――なぜ新型コロナウイルス震源地のとなったのか。いや、ならざるをえなかったのか。武漢の歴史を振り返ることは、あるいは近未来の中国を考えることに通じるようにも思える。

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