明治の反知性主義が見た中国

2020年2月9日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

日中外国について

 前田は「支那に対する我外交」にも言及していた。

 「支那は面積広大にて人口も亦多大」。つまり「大国の素材具備致候」。だから「一度覚醒に機来らんには一躍強国たるべしと考へ」る。だが、それは大きな間違いで、「過去の迷信に過ぎ」ない。この「迷信」を信じたまま、列強は首都である北京を押さえる袁世凱に肩入れし、あるいは南方からの反攻を目指す孫文に期待する。

 これに対し日本は「当時南方にも北方にも双方に多大の同情を表し」、「一方に偏せず」、「局面の終結を急がず優柔としてとして今日に至」った。その結果、辛亥革命が勃発した「昨秋以来の我外交は当を得たるものとして讃称」に値する。だが、それは「偶然の結果」に過ぎない。やはり前田からすれば、清朝崩壊から中華民国建国前後における「支那に対する我外交」は決して成功したと評価できるものではなかったのだ。

 明治4(1871)年に結んだ日清修好条規以来の「支那に対する我外交」を振り返った時、成否を問わず、その全てが「偶然の結果」であろうはずがない。入念な準備の末の成功例もあれば、成功を約束されながらの失敗例もあったはずだ。

 その時々で日本政府はどのように備え、外交当局や軍はどのように動き、国内与論はどのように展開され、関係諸国はどのように応じたのか。その一々に対する検証作業は、「支那に対する我外交」の軌跡と成否を学ぶためだけではなく、将来に生かすためにも是非とも必要であろう。

 今回の新型コロナウイルスに対する政府、メディア、国民の振る舞いに依って、あるいは将来に向けての我が国における対中外交の方向性を見極めることが出来るかもしれない。

■前田利定(明治7=1874年~昭和19=1944年)。子爵。父親は最後の加賀藩主である前田利昭。歩兵中尉として日清戦争に従軍後、東京帝大法科大学を卒業。1904年には30歳で貴族院子爵議員に選出されている。逓信大臣(1922年。加藤友三郎内閣)、農商務大臣(1924年。清浦内閣)などを歴任。歌人としては佐佐木信綱に師事。

なお引用は前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)に拠る。

  
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