明治の反知性主義が見た中国

2020年2月9日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「駆除韃虜、恢復中華」

 ここで再び前田の旅に戻りたい。

 武漢における革命軍と官軍の戦闘は前(1911)年10月16日より40日間ほど続いた。武漢各地に残る戦闘の跡を歩きながら、革命軍の戦闘振りを「殆ど児戯に類する」と酷評する一方で、革命軍が潰走した後の官軍の振る舞いに怒りを隠さない。

 革命軍を追い払った後、官軍は「支那良民の家屋敷を一片の灰と焼き払」い掠奪の限りを尽くした。彼らは「名は官軍と云ふ」が良民を苦しめる「虎狼の軍」でしかない。

 古来中国では「好鉄不当釘、好人不当兵(良い鉄は釘にならない。良い人は兵にならない)」といわれ、兵隊とはゴロツキ・野良犬の類であり、戦場での勝利の雄叫びは掠奪開始の号砲であった。掠奪の過程で「良民の家屋敷を一片の灰と焼き払」う。それゆえに「民望を失ひ」、結果として「革命の機運を助長せし」めてしまったというのだ。

 前田は漢口における官軍と革命軍との戦闘振りから、狼藉の限りを尽くす官軍は「自業自得是非もなき次第」で民心を失うしかない。一方の革命軍は「殆ど児戯に類する」戦闘しかできないゆえに、官軍を打ち破る可能性はなさそうだ。これが漢口における辛亥革命の実態だったということだろう。

 次いで前田は漢口から汽車で北上し北京に向かう。途中に立ち寄った信陽府で、新しい時代の“不都合な真実”を見せつけられた。

 じつは北京に近い信陽府では兵隊であれ一般庶民であれ、誰もが弁髪に「前朝の冠帽衣裳を用ゐ」ていていた。清朝が続いていると勘違いさせるような光景であり、「中華民国とて『ハイカラ』の共和政治とやら行はるゝ国」とは思えなかった。半年ほど前の革命で清朝が崩壊し中華民国が建国されたはずなのに、である。

 「駆除韃虜、恢復中華」を掲げた革命が成功したのだから、全土は清朝嫌悪の排満思想で沸き返っているはずだと思い込んでいたのだろう。だが、共和思想は中国全土の「民論主張の期せずして合同せしもの」ではなく、孫文ら革命派が地盤とした中国南部の一地域に限られたものでしかなかったのであろう。やはり中国は広い。各地の民度にも差がある。国土が広大であればこそ、首都の変化が全土に及ぶには長い時間と紆余曲折の経過が必要だ。日本のように首都・東京の政治的威令が時を措かずして全土に及ぶわけはない。

 そこで前田は、次のように考える。

 西欧由来の共和思想は、南部の限られた「士人」が何らかの意図に従って「唱道」しただけであり、彼ら以外は「当時盲目的に烟に捲かれ雷同附和し」たということであり、とどのつまりは「嘘から出た誠とはなりし位のもの」でしかない。「堅固なる政治上の信念により排満思想の天下に充実し」た結果として「民論遂に革命となりしもの」ではなかった。

 「『ハイカラ』の共和政治」を掲げる中華民国の中央政府が置かれた北京からほど遠からぬ信陽が、このザマである。ならば北京を離れれば離れるほどに共和政治とは程遠い、清朝治下そのままの姿であったに違いない。かくて「共和政府の威厳の徹底せざるものあるに至りては共和政も随分薄ぺらのものなることと相知り可申存候」と結論づける。

 かくて前田は、《日本人の物差し》による判断が単なる思い込みに過ぎたかったことに気づいたのではなかったか。

 佐佐木信綱に師事した歌人でもある前田は、旅のつれづれに「古へは大き聖の生れし国/ますらをひとり唯ひとりなき」と詠んだ。

 清朝最期の宣統帝溥儀は廃され、官民は「共和の政に心酔致し候」ではある。革命が成功し中華民国が建国されたばかりだが、「已に官人相争ひ名士互に相下ら」ないばかりか、「国の主権の所在たる大総統の威厳」は地に堕ちたも同然であり、国民からする「敬仰の中心点」となってはいない。このままでは「国民は国家と相離れて収拾すべからざる状態に移り変ること」もありうる。伝統の秘めた因習を振り返ることなく、たんに満洲王朝を打倒して古い王朝制度だけを「破壊し候はゞ必ず憲政の美を致すべくと過信」したゆえに、立憲共和制とは名ばかりの混乱社会が生まれてしまった。

 数千年の歴史に照らしてみれば、革命と称し「支那にありては国家統一」の柱であるべき天子=皇帝を廃絶したものの、これに代わって民心を糾合する仕組みを考え出さないのであるならば、無政府状態を覚悟しなければならない。

 孫文を襲って新しい国家指導者に就いた袁世凱が「非凡の老雄」であったとしても、所詮は「満朝の一大官に過ぎ」ない。大総統に就いたからといって「四百余州を挙げて四億万民心の啓仰の中心点とは直ちに」なれるわけではないが、とはいえ「共和国の今日袁を措きて誰か国家の第一人者たるもの」がいるわけでもない。そこで「国家柱石を以て自ら任じ憲政の美果を成就せられんことを国民の為に祈申候」と、袁世凱にエールを送ることを忘れない。

 袁世凱へのエールはエールとしても、「民心の帰向する尊厳は智力財力と武力」だけで成り立っているわけではない。であればこそ、「支那の将来は如何に」「中華民国の前途果たして如何に候や」と不安にもなる。「智力財力と武力」を共に備えたとはいえ、その先に成り立つ「民心の帰向する尊厳」を失くし、国家統一の中心を失ってしまった以上、中華民国の「堅実統一」は覚束ないということだろう。

 かくて前田は若き廃帝の宣統帝溥儀に思いを致しつつ「隣邦の末如何なるべきかを思ひ悲喜交々来り申候」と嘆息を漏らす。

 南京では孔子を祀る聖廟に向った。

 そこは「瓦落ち墻敗れたる中に荒れ果て」ていた。中に入ると「塵埃堆積して黴臭く」、「満朝の制帽の艸むらにうち棄てられたるもの山をなし雨露に撲たれて色あせて居り」。やはり王朝が崩壊したことで、「今迄尊しとして戴きし冠帽を弊履なんどを棄つるが如くうち棄て」てしまうもの。やはり「一味の哀愁」を感じないわけにはいかない。

 「儒教の本家本元にして聖廟を荒廃」のままに棄て措くのは「奇怪至極なる現象」ではあるが、そうなるだけの背景があるはずだ。「支那国民の教育の守本尊が此の体裁で其権威を失墜すること斯くの如き様では国民の精神を指導して行く倫理も道徳もあつたものではな」い。

 とどのつまり「国民教化の標準機関なくして国家民心鞏固統一を計らんとするは所謂木に縁り魚を求むるより難ければなりにて候」。いまや「従来の専制君主政治より一躍も二躍もして極端なる『ハイカラ』共和の政体」にはなったが、それは表面上だけのこと。肝心の国民精神の柱を失ったままだ。まさか民意統合に向けた「倫理の標準」を道教、仏教、「『ハイカラ』耶蘇教」に置くわけにもいかないだろう。

 「聖廟の荒廃」を目にした前田は、「支那人は一体物を創造する時は金力も労力も惜しまず作り上げ」るが、完成した「後はうつちやり放しで修理とか改良など一切致し申さぬ国民」であり、「使へるだけ使ひ尽し大修理の必要起る時は別に新規に建て直す」ものと受け取る。

 「清朝の政治の改善や行政諸般の改革なんどする考え」はなく、「荒廃せる家屋敷などに手を入れず別に新築すると云う心持と全く同じ寸法」で、「新規に国家を建て直す」ことにしたのではないか。とどのつまり辛亥革命は「当時盲目的に烟に捲かれ雷同附和し嘘から出た誠」ではなかったか――これが前田の辛亥革命から中華民国建国へと辿った政治の動向に対する考えということになるだろう。

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