1910(明治44)年の暮れも押し詰まった頃、小林愛雄は上海に向かった。それから10カ月ほどが過ぎた1911年10月10日、長江中流域の要衝で知られる武昌で勃発した武装蜂起を機に清朝は瓦解し、アジア初の立憲共和政体の中華民国が生まれた。
いわば小林は封建中華帝国に幕を引いた清朝の“黄昏の一刻”を歩いたことになる。
異国への旅を前に小林は、「『人の眠てゐる国』がある。何億といふ人間が、何年も昔から高鼾をかいて眠てゐる国がある。その国には、何処まで探ぐつて行つても源泉が分らず、対岸さへもよく見へない大きな河がある。又その国には晴れた日にいくら望遠鏡で見ても山はおろか家も樹も見えない広い野原がある」との思いを抱いた。
「その国」は世界の3大偉人の1人である孔子を生み、万里の長城を築き、数多の英雄・詩人を輩出したにもかかわらず、「今の人は何とも思はないで、うまい老酒や阿片の香にひたつて悠々と眠てゐる」と記した後、「その国の傍にあまり大きくない島がある」と続ける。
「島の若者は、『人の眠てゐる国』から育てられたことを忘れ、近頃は遠い海を越した先の、『人の醒めてゐる国』を拝んで、模倣て、ひとりでえらくなつたやうに鼻をうごめかして居た」。ある日、「島の若者の一人がこの『人の眠てゐる国』へ旅をした。思ふには、『きつとガリヴㇵァが小人国へ行つたやうだらう』と」。
だが百聞は一見に如かず。必ずしも「悠々と眠てゐる」わけでもなさそうだった。
「自分の島では近頃この『人の眠てゐる国』の聖人の書物がマツチのやうな小さな本になつて」いて、電車のなかでも読まれるようになっている。だが、「その本元の国では根本からもつと新しい思想が人間の頭に植えつけられてゐた」。一方、「島の人がしきりに苦しんでゐる東西文化の融和といふやうな事も、ぢきにやつてのけさうに見えてゐた」。どうやら孔孟の教えに導かれた伝統に縛られることなく、欧米から新しい思想がドンドン取り入れられているようだ。
「あまり大きくない島」で“頭の中”で思い描いていたことが、「人の眠てゐる国」の現実によって見事に裏切られとしまった。その国は必ずしも「人の眠てゐる国」ではなかった。昔も今も、中国で進行している現実を日本人は的確に捉えきれない。やはり日本人に備わってしまった固定観念が“遮眼帯”となって、現実から目を逸らせてしまうのだろう。
かくて「島の若者の一人はどつちが大人だか、小人だかわからないやうに思ひながら帰つて来た」。この旅行で若者は心に「大層得るところがあつた」らしい。それというのも、「『人の眠てゐる国』の覚醒した暁を考へて、しばらく夜着をかけていたはり、やがて起き上つたら手をとつていつしよに歩かなければならないと思つた」からだ。
ここに亡国の清国にテコ入れし、共に立って欧米の侵略からアジアを守ろうとする《アジアへの素朴な思い》が見て取れる。
上海での一夜、小林は歓楽街で知られる四馬路へ繰り出した。
「試みに騒々しく音のする一亭へ上がる」。「卓を囲む若旦那に芸妓」、「無作法な態をして、阿片をのんだり、茶をのんだり」。嬌声・脂粉・紫煙・嬌態・狂態・・・「支那人の公然と遊ぶ侠気か虚偽かゞ現はれて興味深い」。かくて「此に今宵一夜の天地を作つて居る」と捉えた。
こんな彼らと、はたして「手をとつていつしよに歩」く時は来るのか。
上海から南京へ
上海を後に長江を遡って南京へ。
ここでも「市街の方には米人が経営する南京大学、独逸人の建てた病院などの大建築が眼に立つ。欧米人が無限の勢力をこの荒野に張らうとして、切りに様々の企画をめぐらすのに」対し、「師範学堂あたりに雇はれて百や二百の金を後生大事に蓄へ、学生と同じ月八円の飯を食つて、支那人の冷笑を買つてい居る邦人のあはれさを思はざるを得ない」。
日本的な常識・感覚・基準に立つならば、「学生と同じ月八円の飯を食」いながら「師範学堂あたり」で教育に励むことは素晴らしいことであり、あるいは「手をとつていつしよに歩」いている心算にもなるだろう。だが、現実には「支那人の冷笑を買」うのが関の山だった。
どうやら日本人は「学生と同じ月八円の飯を食」うこと、言い換えるなら現地人と同じ目線に立つことを“是”とする傾向が強い。いわば上から目線の欧米人とは異なり、日本人は現地人と同じ目線に立つという構図である。圧倒的物量によって相手をねじ伏せてしまう欧米とは対照的に、日本人は彼らと同列に振る舞うことで仲間になりたがる。だが悲しいことに、それが却って相手に軽んじられ、つけ入る隙を与えてしまうことに気づかない。
であればこそ省みるべきは、「支那人の冷笑を買」うのは日本人でこそあれ、決して欧米人ではないということではないか。
小林の旅を急ぐ。
南京の街や名勝古跡を廻り管理のいい加減さを目にした小林は、「斯ういふ処を見ても凡ての調子が善く云へば大よう、悪く云へば間抜けである。がせゝこましい島国から見ると何もかもが羨ましいほど大国の襟度がある」との感慨を漏らす。
たしかに「せゝこましい島国から見ると」「間抜けである」。だが「大国」であるかどうか、さらには「襟度」があるかどうかは別として、あれほどのだだっ広い国に、あれほどの人口(それも抜け目なく一筋縄ではいかない)である。「大よう」にでも構えない限り、やってはいけないに違いない。
阿片の香に包まれて過ごした南京の7日間を切り上げて長江を遡る旅に立つ朝、「朝飯は洋務局の食事で済ませた」。だが、その朝食は洋務局(外務省)の玄関で煮炊きしたものだった。「外務省の玄関が御料理の調進、このやうな善い国が世界の何処にあらうか」と、小林は「をかし味を禁ずることは出來なかった」。
加えて前夜にボーイに与えておいたチップの「効果は忽ち現はれて」、朝食のテーブルであるにもかかわらず「コニャック、葡萄酒が卓上に並ぶ」。だが客に一杯薦めるだけで、「残りは、客が去ると直ぐボーイが飲んで仕舞ふ」。それも隠れて飲むのではなく、あたかも「個人の権利でもあるかのやうに公然と」。
それだけではない。「最も面白く感じたのは」、昨夜の大宴会の後の大食堂を覗いてみると、「数十人のボーイが主人と同じ食卓に、同じ食器で残のものを食つて居たことである」。そこで小林は、「主従の別」というものは「時の前後にあるばかり」ではなかろうか、と思い至る。「この一事を見ても支那学は、もう既に廃滅して用をなさない事を知るのであ」った。
蘊奥を極めた古色蒼然たる我が国の「支那学」なんぞはバーチャルな中国世界を語りこそすれ、すでに現実の中国理解には用をなさなくなっていたということだろう。
長江をさかのぼり九口へ
日本人は「馬鹿正直」を貫くことを美徳とする
長江を遡る小林の船旅は続き、某日夕方、九口に到着した。
「此処も港口は洋館が多く並んでゐる。が英国会社の繋船場が最好の位置を奪つて居るのに反し、日本のは一番末に追ひのけられ、乗船には一番不便の地位に居る。日英同盟などヽ安神してゐる間に、英人はどしどし巨利を占めて行く。馬鹿正直は決して最上の商略ではない。青年は斯ういふ処へ来て腕だめしをしなければならない。洞庭湖畔に水荘を造るの概がなければならない」。
当時の国際社会において、日英同盟は日本の影響力を高めるうえで大いに役立ったとの評価がある。一面では正論だろう。だが、「日英同盟などヽ安神してゐる間に、英人はどしどし巨利を占めて行」ったこともハッキリと記憶しておきたい。やはり国際社会においては「商略」のみならず外交においても、「馬鹿正直は決して最上」ではないからだ。
日本人は「馬鹿正直」を貫くことを美徳とする。だが日本外交の歴史を振り返ってみると、その「馬鹿正直」が日本の手足を縛り、大いなる躓きの石になったことも少なくはない。それが判っていながら「馬鹿正直」の道を択び突き進むのも日本人だ。とはいえ「馬鹿正直」が必然的に呼び寄せてしまう大損という悪循環は、断固として避けねばならない。そのためには、やはり日本を取り巻く大状況を「馬鹿正直」なまでに徹底して客観視し、次の一手を考えるしかない。
東洋のニューヨークと呼ばれた、漢口
次いで長江中流域に在って「東洋の紐育(ニューヨーク)と云はれる漢口」へ上陸する。
「領事舘と正金銀行と三井の外何もなく数万坪に草ばかり茂つて落寞を極めて居る日本租界を通つて、松の家旅舘に入いる」。小林が日本租界を「殖民地の場末のやうな」と表現しているところをみると、列強諸国に較べ、漢口における日本の存在感は希薄だったようだ。
某日、漢口対岸の漢陽にある漢陽製鉄局に足を運ぶ。当時の近代化策に沿って建設された最先端製鉄工場で、レール製造工程を見学すると、「普通は一日に二百本、ことによると一千本も造るといふ。これは或は白髪三千丈の類かもしれないと思」う。だが、この工場でも「指揮者は二十余人の独逸人で、支那は工夫なのだから気の毒なものである」。つまり近代的製鉄工場と誇りはしても、中国人は肉体労働を提供するだけ。実際はドイツ人が動かしているというのだ。ドイツ侮るべからず。その影響力は測り難い。
漢口から京漢鉄道で北京へ
次は北京と漢口を結ぶ京漢鉄道で北京に向かう。この路線は、イギリスによる中国利権独占を阻止するために、ロシアとフランスがベルギーのシンジケートを隠れ蓑に経営していた。イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、それにアメリカ――中国利権をめぐって列強は虚々実々の争いを展開していたのである。
北京で先ず訪ねたのは、中心部の天安門の近くに位置する「公使舘街ともいふべき東交民巷」だった。ここには「英国、徳国(独逸)、荷蘭(和蘭)、美国(米国)、露国(俄国)、法國(仏国)、奥国(澳国)、伊国、及び日本の各施署(即公使舘)が構を接し」、各国が義和団制圧を機に「駐屯軍を置いて儼然と威風をなびかせて居る」。
このような東交民巷の姿を列強各国による中国制圧の象徴と捉える小林は、「この小なる支那分割の一廓を見ても、各国勢力消長がうかゞはれるが、斯うされるやうになつたのは」、清朝最後の独裁者でもある西太后が徒に排外主義に奔り、1900年~01年に起こった義和団の排外暴動に“お墨付き”を与えたから。だから権力者の自己満足が列強の介入を招き、とどのつまり「支那の小人」が被害者となる、と結論づける。
北京における某日、小林は日本公使館の招待宴に招かれ北京在住邦人有力者と同席した。
小林の「日本人は、よく支那人は抜けて居ると云ひますが、私は支那は悧巧だと思うふのですが如何でせう」との質問に、「それは中々馬鹿どころではないです。日本人の或者が支那人に対して、西洋人の或者がとるやうな観方をするのは大間違いなことです」との考えが返ってきた。どうやら日本人が西洋人のように振る舞うのは「大間違い」らしい。そこで小林は日本が朝鮮に力を注ぐのも良いが、「日本の名士がもう少し支那へ来るといゝでせうね」と続けた。
小林が「日本の名士」は実際に足を運び現地の生の姿を知るべきだ説くや、隣席の人物は「支那人は国家観念がうすく個人主義で」あり、「まだ定まつた文明の思想形式が整つて居ない」。「だから東洋人たる吾々はどうしても支那を開拓し、共に研究しつゝ手をとつて親切に導いてやらねばならないのです」と応じている。
そこで小林は、その昔は「日本から恭々しく遣唐使を派した時分」もあったわけで、「今日の富者は必ずしも明日の富者ではない」ことを考えるべきだと説きながら、「それにしても現代の支那思想が欧洲の近代思想と似て居るのは頗る面白い」ことであり、であればこそ「支那が存外立派に西洋思想を解釈し融和するかも知れませんね」と話題を振った。
だが相手は小林の考えを正面から受け止めることなく、「兎に角東洋の富源として空地として西洋が支那に対して覚醒し活動しだしたのは非常なものですから」と話題を転じた。
これに対し小林が「長江に於ける各国汽船の競争」「北京に於ける列国形勢」「各大都会の列国商人の活動」を見ても、やはり「支那を研究し、支那に事業をやる日本人がもつともつと出なければだめです」と口にする。そこで相手は勇ましくも「東洋文明新築の理想」を説きはじめた。
これを承けて小林は「東洋文明新築の理想」は「前途程遠い」ことだが、毎年5、60万人の割合で人口が増加する日本の現状からして、日本人が「将来骨を埋むべき青山は支那を措いて何処にあるでせう」と水を向けると、相手は「日本に御帰りでしたら同胞へ伝へて下さい。支那を研究せよ。支那に渡来せよ、支那に事業せよ。さうして支那を愛せよと」。
両者は「支那を愛せよ」では一致する。だが、根本において異なる。北京在住有力者は「東洋の富源として空地として西洋が支那」を捉えているのであるから、日本はこの動きに遅れを取ってはならないと考える。これに対し小林は、「現代の支那思想が欧洲の近代思想と似て居るのは頗る面白い」ことであり、だから「支那が存外立派に西洋思想を解釈し融和するかも知れません」とする。
この両者の考えの食い違いに、当時の中国に向き合う際の日本人の姿勢の違いが現れているように思える。「東洋の富源として空地」であればこそ飽くまでも“他者”として対応するのか。はたまた断固として「東洋文明新築の理想」を目指す“仲間”として交流を積み重ねるのか――それぞれに中国と西洋に対し、日本の立ち位置は異なる。つまり日本は自らを西洋の側に置くのか。それとも中国の側に立つのか。
前者が西洋的覇道で、後者が東洋的王道ということになるだろう。かくて日本にとっての中国は「東洋の富源として空地」なのか。はたまた「東洋文明新築の理想」を実現する場所なのか。選ぶべきは西洋的覇道か。東洋的王道か……永久運動的大命題が浮かび上がる。