2024年11月22日(金)

明治の反知性主義が見た中国

2020年1月11日

北京から天津へ
まずは、日本の租界を見て回る

 賑わっているのは「矢張り英独の二国のそれである」。これに対し「日本の商店は資本が小さい、従つて店構へが貧弱であるから、大資本と政府の後援を得て、花々しく打つて出てゐる欧米諸国と比肩するわけには行かない」。日本の商店のなかには「トタン張りの一間間口といふ情けない雑貨店もある」ほどだ。北京がこうなら、中国全体でそうだっただろう。では、なぜ日本の商店は「大資本と政府の後援を得」ることができないのか。はたまた我が「大資本と政府」は支援をしないのか。現在にも通ずる課題が潜んでいるようだ。

 やがて北京を離れ、「欧洲の大都会を縮小して持つて来たやうな観がある」天津へ。

 先ずは日本租界を見て回った。

 「まだ多くの空屋が新来の奮闘家を待つて居る」。やはり「目下のわが商業は遺憾乍ら不振と云はざるを得ない」。その原因の1つが「わが商業家が浮薄な為め」であるからだ。「凡そ海外に出ても、少しばかり金を儲ければ帰国するといふやうな考では、成功するものではない」。「邦人は多く一時の小成功を目標にしてゐるから、よし失敗に終らずとしても、大なる成功は望まない」というのだから、「皆一生の事業として、落ち着いて取かゝつて居る」ような西洋人には太刀打ちできない。

 天津の日本人倶楽部を訪問する。

 天津の「在留邦人二千のうち此の会員二百人」で、主だった会員の30人ほどが歓迎宴を開いてくれた。

 「やがて食卓の上に膳が運ばれる。此地に居る日本の芸妓十余名が酒をすゝめる」という段取りだ。そこで小林は「芸妓のことを少しばかり物語らう」とする。

 なんでも「わが商業の海外発展がまだあまり振はないのに反し、紅裙隊の遠征は千里を遠しとしないで、深山の奥のその奥までも足跡を印して居る。上海より江上四五日もかゝる漢口にさへ、四五十人の芸妓が居る位であるから北京、天津に活動しているのは無理もない話である」。彼女らの出身地は山口や福岡が中心で、せいぜいが大阪まで。「それより東国の者は一人もないと云つていゝ」。

 「少しばかり金を儲ければ帰国するといふやうな考」えの男に対し、「紅裙隊」は中国大陸の「深山の奥のその奥までも足跡を印して居る」のであった。嗚呼、「紅裙隊」よ!

天津から奉天へ
奉天は日本のようだろうと想像するが…

 やがて小林の足は奉天に向った。

 「奉天満鉄停車場へ着く」。寒い。「足は氷るやうに覚へる。処々には日本式の商店も見えるが、如何にも微々たるものばかりである」。同地の在留邦人は3000人ほどだが、「段々衰へる一方で、富を得ぬ者が多いからとのことである」。

 「奉天へ入れば日本内地へ帰つたやうだらうと想像したのは案に相違して」、日本人が勢力を張っていたのは「(日露)戦争当時のほんの一時」のことだった。「今は日本語も通ぜず、紙幣も信用がおち」てしまった。横浜正金銀行の取引先は「皆支那人であるとか、日本人には銀行と取引をするまでの財力あるものがないと見える」。かくて小林は「戦勝の余栄今何処にあるかと云はなければならぬ」と嘆く。

 「奉天の将来は余程邦人が一生懸命にならぬと絶望の地となりはしまいか。第一今は商業が振はず、輸出も豆と豆糟位のもので、輸入も大したものもない」。加えるに馬賊が跳梁跋扈するので、対策のために列車に兵士を配すが、「外人はこれをひどく嫌ふといふことだ」。また、「その兵士が支那人の弁髪を引張つたり何かするので支那人も嫌つて」いる。さて、「東洋文明新築の理想」はどうすれば築けるのか。

 「人の人の眠てゐる国」の旅を終えた小林は、この国と「手をとつていつしよに歩かなければならないと思つた」。だが、やがて迎える大正の時代、「起き上つたら手をとつていつしよに歩」こうなどという心優しい思いは吹っ飛ぶことになる。

■小林愛雄(明治14=1881年~昭和20=1945年)は東京生まれの詩人・作詞家・翻訳家。東京帝国大学英文科卒業後、東西の音楽や歌劇の研究・保存・創作・演奏を目的に「楽苑会」を結成。夏目漱石や佐々木信綱に師事。日本のオペラ界の草分け的存在であり、浅草オペラ全盛期にペラ・ゴロを熱狂させたエノケンの「ベアトリ姐ちゃん」、田谷力三の「恋はやさし野辺の花よ」が代表作。上田敏や蒲原有明などの系列に属する象徴詩、ブラウニングやロセッティなどの英詩の翻訳でも知られる。文部省教科書編纂委員のほか、常盤松高等女学校や早稲田実業で校長を歴任。

なお引用は『支那印象記』(敬文堂 明治44年)に拠る。

  
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