2024年12月23日(月)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年12月26日

 「逃亡犯条例」反対に端を発した香港の混乱は、6月以来、半年が過ぎても一向に収束する気配が見えない。12月に入っても大規模なデモは止みそうにない。

 12月10日の記者会見において、香港政府トップの林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、反政府・民主派陣営が掲げる「五大要求」――警備当局の実力行使の是非を調査する独立調査委員会の設置、行政長官選挙における普通選挙の実施など――のうち「逮捕者の無罪放免」に就いては、「法治の精神に反するゆえに受け入れられない」と強調した。加えて同陣営の要求には「回答済み」との姿勢を崩すことなく、新たな譲歩を見せようとはしない。

 「一国両制」の下、初代の董建華以来、行政長官に与えられている役割は“雇われマダム”の域を出るものではない。だから林鄭長官にも独自の判断を下せる権限はない。

 香港政府が置かれた政治的環境を冷静に捉えるなら、貧乏クジを引かされたような立場に置かれた同長官を非難・攻撃したところで、前向きの成果は得られない。現実的に考えて、香港の政治環境が反政府民主派陣営が求めるがままに動くわけがない。

 ワシントンで政府・与野党が力を合わせて「香港人権・民主法」を成立させようとも、やはり香港の混乱は当分は続くことを覚悟するしかない。

(fazon1/gettyimages)

 香港は“ないない尽くしの泥沼”に落ち込んでしまったようだが、誰もが意気消沈しているわけではない。逆境を逆手に取って商売に励もうという強者が現れた。さすがに香港、である。

 混乱が半年も続いた結果、香港経済の柱である観光産業をはじめ、レストラン、小売業などへの影響は計り知れない。営業規模が小さいほどに、経営者は危機感を募らせる。倒産、店仕舞い、果ては夜逃げも致し方ないところだ。

 冷え込む一方の町場の景気対策を狙ったのだろうか。香港最強の企業家である李嘉誠が動いた。自らが経営する資産運用機関の李嘉誠基金から資金を醵出し、1社当たり6万香港ドル(約85万円)を支援しようというのだ。

 すると早速、庶民向けの日本食レストランが、これに呼応する。李嘉誠の大英断に敬意を表するかのように出血サービスを打ち出した。

 店頭で客(但し6歳以上)が示した身分証明証に「李」「嘉」「誠」「万」「歳」の5文字のうちの3文字が記されていたら、ランチかディナーは無料。2文字なら半額、1文字なら20%引きというのだ。サービスは1月23日まで。さりげなく「最終決定権は当店が保持する」と注記している辺りが香港らしい。日本人では到底考え付きそうにない商法だろう。

 この店は、デモ隊と警備当局が激しい市街戦を展開した旺角にある。同地は九龍の中心に位置する庶民の街であり、2014年の雨傘運動の際も幹線道路が数カ月に亘って封鎖され、周辺の小売店やレストランは深刻な影響を被っている。

 雨傘運動が最も盛んだった時期に、このレストランが被害を被ったかどうかは不明だ。

 だが、転んでもタダでは起きないような企業家精神に頭が下がる。「さすが香港人!」である。

 もっとも李嘉誠にしたところで、大企業家としての責任感や義侠心から、6万香港ドルの提供を思い付いたわけでもあるまい。香港の浮沈は自らが香港に所有する資産の価値に直に響く。それだけに、一種の「風険投資(リスク・マネージメント)」と受け取れば納得もいく。転ばぬ先の杖。李もまた「さすが香港人!」なのだ。

 6月以来、街頭に響いたスローガンを見ると、当初の「香港人、加油(香港人よ、ガンバレ)」は、10月1日の国慶節を機に「香港人、反抗(香港人よ、反抗だ)」に変わり、デモ隊と警備部隊との衝突現場近くで負傷した男子大学生が亡くなった11月8日になると、「香港人、報仇(香港人よ、報復だ)」へと、“怒れる若者”の街頭行動に沿うかのように過激度を加えて行った。

 「加油」が「反抗」へ。そして「反抗」が「報仇」へ――とはいうが、何の「仇」を、どのようにして「報(う)」つのか。常識的に考えれば、過剰な警備を繰り返した狂暴極まりない警察に対する「報仇(あだうち)」ということになるはずだ。

 12月9日、記者会見に臨んだ警察は、「市民による表現の自由は尊重するが、違法行為に対しては選択肢がない。秩序維持のため武力は最低限の行使に止めている」と強調した。その際、デモ鎮圧目的で半年間に使われた催涙弾は約1万6000発。ということは衝突が連日起こったわけではないとはいえ、1日当たり約90発の催涙弾がデモ隊に向けて発射された計算になる。この他、ゴム弾は約1万発で暴徒鎮圧用のビーンバック弾は約2000発とのことを明らかにした。デモ隊側は、催涙弾などは中国製で猛毒だと非人道性を強く非難している。

 当然、警察当局の見解は、デモ隊の行動がエスカレートし通常の警備態勢では対応不能になったからこそ、これだけの弾薬を使用せざるを得なかったと主張する。だがデモ隊側は警備のレベルを遥かに超えた残虐な暴力行為だと非難の声を上げる。攻防双方が正反対の主張を繰り返すことは、この種の街頭行動に際し世界各地で例外なくみられることではある。

 現場を知らない筆者には、どちらの主張が正しいかは正直言って分からない。だが、双方の非難の応酬から、中国人の口の端にのぼる「冤冤相報何時了(恨みに恨みで報いると、恨みは際限なく続かざるをえない)」という言葉が浮かぶ。

 「冤冤相報何時了」で思い出すのが、1990年代初頭に映画『さらば、わが愛/覇王別妃』で世界の映画界に衝撃を与えた陳凱歌が自らの半生を記した『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)の一節である。

 1965年は「中華人民共和国が成立して、十六周年の年」に当たる。この年、13歳だった陳凱歌は、「偉大な指導者」によって起こされ、当時は「魂に触れる革命」と讃えられた文化大革命の真っ只中に青春を送っている。「造反有理」「革命無罪」を免罪符にして、超過激な街頭行動に奔った世代でもある。

 共産党幹部として多忙だった両親に代わって幼かった彼を育てた乳母は、こう教え諭したそうだ。

 「昔から中国では押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。寛容など考えられない。『相手の使った方法で、相手の身を治める』というのだ。そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけだ。では、災禍はなぜ起こったのだろう? それは灯明を叩き壊した和尚が寺を呪うようなものだ。自分自身がその原因だったにもかかわらず、個人の責任を問えば、人々は、残酷な政治の圧力や、盲目的な信仰、集団の決定とかを持ち出すだろう。だが、あらゆる人が無実となるとき、本当に無実だった人は、永遠にうち捨てられてしまう」。

 万に一つ習近平政権が自らの「非」を認め、香港に完全なる「高度な自治」を保証し、自由で民主的な香港特別行政区が出現した時、デモに奔った若者たちは「正義」を手にすることになるのだろうか。

 だが、「昔から中国で」見られたような「押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった」などといったことが起こらないことを強く望む。「相手の使った方法で、相手の身を治める」ならば、「弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない」からである。

 であればこそ香港の人々、ことに「中国人ではない。香港人である」と胸を張る多くの若者に、自らが「中国人ではない。香港人である」ことを内外に明確に示してもらいたいものだ。


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