チャイナ・ウォッチャーの視点

2020年3月6日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]
牛車水(シンガポールのチャイナタウン)。中国人観光客は見当たらず

 2月20日に成田を発った。豪華クルーズ船の「武漢化」が危惧され始めた頃でもあり、成田空港の出発ロビーはいつもとは様相を異にしていた。大きなキャリーバックを引きずった多数の中国人観光客は見当たらない。出国手続きは至ってスムーズである。

 メディアから新型コロナウイルス関連情報が洪水のように流れだし、やや不安にもなった。旅行を取りやめようかとも思ったが、シンガポールの危機管理ぶりを現地で見ることができる絶好の機会でもある。そこで予定通りに成田を飛び立つことにした。

 10年ほど前から毎年春先の20日前後をシンガポールで過ごすようになったが、こんなに閑散としたチャンギ空港は初めてである。心なしか通常より厳重気味のサーモグラフィー検査を無事に通過して進むが、閑散としたまま。いつもの騒然とした雰囲気は感じられない。

 旅券審査に向かう。コンコースの先のエスカレーターを下りると広い空間があり、その先に係官の待つ旅券審査台が並んでいる。いつもなら旅券審査待ちの長い行列でごった返し、彼らの話す中国語が渦を巻きイライラが募るのばかりだが、ガラーンとして誰もいない。まったく拍子抜けである。

 エレベーターを降りた先の目立つ所に置かれた表示を見れば、「中国人および過去14日以内に中国大陸を訪問した者は申し出られたい」とある。実はシンガポール政府は2月1日夜11時59分を期して「過去14日間以内に中国大陸を訪れた者の入国、及びシンガポールでのトランジットを禁止する」ことを明らかにしている。

 つまり、シンガポールでは逸早く中国人と中国経由外国人の入国を止めたのだ。感染の拡大を防ぐためには問答無用である。先ずは感染地域からのヒトの「移動」を止めるしかない。未知の感染症なら、なおさらで、真っ先に蛇口を締めるのが最も現実的で費用対効果の高い方策だろう。

 だが、日本はそうではなかった。誰の面子を慮ったのか“武漢しばり”などと称せられる荒唐無稽で非科学的な措置に拘泥しているから対応が後手に回り、有効策を打てないままに、とどのつまり被害の拡大を防げない。

 旅券審査台に向かうが、筆者の前にも後ろにも誰もいない。思い返せば最初の海外体験は1968年の台湾への語学研修だった。以来、東南アジアを中心に世界各地の空港を利用したが、待ち時間なく気持ちよく済ませた旅券審査は初めてだった。旅客が少ないから荷物を受け取るのも早い。タクシー乗り場でも先客がいないから、待つことはなくタクシーへ。こんな経験も初めてだ。

中国人観光客のいないオーチャードロード

 翌日、広い道路の両側には高級ブランド店が並び、いつもなら外国人観光客でごった返しているオーチャードロードを歩いてみた。欧米人と思しきがチラホラで、大声で会話しながら買い物に血道を上げているはずの中国人観光客が見られない。入国が止められているから当たり前ではあるが、なんとも異様な光景だ。

 オーチャードロードの真ん中辺りに位置する高島屋に向かったが、「2月20日以降、午前11時から午後8時まで」と営業時間短縮が掲示されていた。高島屋のはす向かいの地場資本系デパートでは「全店狂歓 大減価50%OFF」を打ち出していた。それでも売れないからだろう。営業時間短縮である。改めて中国人観光客の落とす「人民元」の威力を知らされた思いだ。

 中国からの観光客が止まったことで大打撃を受けているのは、オーチャードロードだけではない。チャイナタウンも同じだった。

 「牛車水」で呼ばれるシンガポールのチャイナタウンに向かう。いつもなら中国語が飛び交い、中国人観光客の歓声で沸きかえっているのだが、ここでも閑散としている。僅かに欧米人観光客が見られる程度。彼らのなかにマスク姿は見られない。土産物屋の店員が「欧米人はケチだから商売にはならない」と、しかめっ面で話してくれた。

客は一組のみのレストラン

 夕飯時のレストランを覗いてみた。どの店も入口のドアーなど目立つ場所に「本店已消毒(消毒済み)」「本店毎天徹底消毒(毎日徹底消毒)」「本店毎天消毒 敬請放心用餐(何卒安心してご利用を)」「本店已做好消毒清潔工作(衛生作業はバッチリです)」などと掲示が張られている。こうしてでも、客が来ないのだ。それはともかく、本当に「消毒」されているだろうか。こう疑5心暗鬼にさせるところに、チャイナタウンの“魅力”が潜んでいるわけではあるが。

 どの店も客の出入りが見られない。20卓ほどのうち1卓だけ家族と思しき4、5人が食事している店もあった。閑散としているだけに、やはり盛り上がっている風は感じられない。ある店では、テーブルを脇にずらし、並べた椅子に仰向けに寝そべって新聞を広げている店員を見かけた。相当に暇を持て余しているようだ。30%引きだというのに客がいない。レストランの売り上げは平均して例年の50%以下に落ち込んでいるとの報道も見られた。この“苦境”を乗り切るには従業員削減しかなさそうだ。

カジノの被害は甚大

 賭博好きな中国人観光客で賑わっていただけにカジノの被害は甚大で、セントーサ島の名勝世界賭博場(リゾート・ワールド・セントーサ)では過去数週間で客は70%減とのことだ。ここでも従業員の首切りは必至だろう。これがIRの現実。安倍政権が強く推すIRだが、皮肉にもIRそれ自体がトバクのような政策だ。

 2月18日、次期首相が確実視されているヘン・スイキャット(王瑞杰)副首相兼財務大臣は「新型コロナウイルス関連で観光、航空、小売り、レストランなど打撃を受けた業界に財政上の優遇策を施すと同時に、8億シンガポール・ドルの新たな財政出動を行うこと」を明言している。打つ手が早い。

 チャイナタウンから引き返して、シンガポールを代表する老舗のラッフルズ・ホテルに向かった。行く先はラッフルズ・ホテルではない。その裏にある骨董屋、印刷屋、漢方薬局、スポーツ用品店などが並ぶローカル色豊かなショッピングモールの百姓楼だ。さすがに、ここでも客足は少ない。

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