チャイナ・ウォッチャーの視点

2020年5月6日

»著者プロフィール
閉じる

樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 新型コロナウイルスの脅威は止まるところを知らない。アメリカのジョンホプキンス大学に付属するCSSE(システム科学・技術センター)の「新型コロナウイルス感染マップ」によれば、全世界の感染者は348万人余、死者は25万人に迫っている(5月4日午前3時半現在)。

 爆発的な感染は当初のヨーロッパからアメリカに移り、次はアフリカでの発生が大いに危惧される。未整備であろう医療態勢は感染拡大のリスクは大きい。だが、これまでのヨーロッパにおける感染被害に照らすなら、各国・地域における第一波の感染状況と対中関係の濃淡との間に因果関係が推測できるだけに、最近の資源・経済を軸とする中国の浸透・進出ぶりからして、アフリカが危機的状況に陥る可能性を否定する材料は見当たりそうにない。

(Oleg Elkov/gettyimages)

 15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた大航海時代の初期、アフリカ南端の喜望峰の沖合を大きく迂回して進んだポルトガル人探検家の目の前に、未知の大海原が現れる。インド洋だ。彼らは西洋人として初めてインド洋に船を進めたわけだが、探検の目的の1つは豊饒の国と伝えられていたキタイ(中国)への航路発見にあった。ヨーロッパにとってアフリカは、キタイに繋がる海路の途中に位置していたことになる。

 だが、それより60年ほど早く、中国人はインド洋を西に向かいアフリカ東海岸に到達していた。

 15世紀初め、大艦隊を率いて東南アジア海域からインド洋一帯の軍事制圧を試みた鄭和は、アフリカ東海岸とマダガスカルに挟まれたモザンビーク海峡を南下していた可能性は高い。習近平政権が掲げる世界秩序再構築構想の歴史的背景を探るなら、「一帯一路」のうちの「一路(21世紀海上シルクロード)」の原型は、鄭和による前後7回に及ぶ海外遠征から発想されたに違いない。

 オランダの東インド会社による南アフリカ占領期(1652~1795年)の記録に依れば、この時期にインド洋西部のアフリカ東海岸に近いモーリシャスに中国から土木技術者が招来され、殖民地経営の下働きをしている。殖民地が開発されるに伴って、広州や梅州(客家居住地)から商人がモーリシャス経由でマダガスカルへ、さらにアフリカ南部に移り住んだようだ。

 モーリシャスでは18世紀後半、広州在住のフランス商人と提携した中国人商人の活動が確認されている。その後、19世紀初頭になって初代総督がマラッカ海洋に浮かぶペナン島での経験に基づいた中国人管理制度を導入し、苦力(華工)と呼ばれる裸一貫の労働者の組織的流入が始まっている。

(PeterHermesFurian/gettyimages) 写真を拡大

中国南部、インドネシア、シンガポールからアフリカへ

 中国南部沿海地方からの移住者はもちろんだが、オランダ殖民地のインドネシア、イギリス殖民地のシンガポールやペナンからの強制的移住もみられた。つまり彼らは故郷である中国南部の沿海地域を離れ東南アジアの殖民地へ。さらにインド洋西部海域に浮かぶモーリシャスへ。モーリシャスから近辺に浮かぶレユニオン、セーシェルへ、あるいはマダガスカルへと移り住み、さらに現在の南アフリカの地に新しい生活空間を求めて移って行った。

 19世紀半ば、中国南部を混乱に陥れた太平天国の指導層が客家系であったことから、太平天国崩壊後、弾圧を恐れた客家系が大挙して海外脱出を試みる。その波はモーリシャスにまで及んだ。敗残の身となった彼らは、太平天国の首都であった南京からどのような経路を経てモーリシャスに辿り着いたのか。

 19世紀半ばから1970年代までのモーリシャスにおける中国人(華僑・華人世代を含む)の人口推移をみると、もちろんモーリシャス生まれの第二世代も増加しているが、中国国内の混乱に合わせるように流入人口は増加し、中華人民共和国建国前後には香港や台湾からの移動も見られる。もちろん現地女性との通婚で生まれた新世代も確実に増加しているが、世代間で中国に対する親近感に違いがあるようだ。

関連記事

新着記事

»もっと見る