鄧小平との直談判
次いでサッチャー首相は「最高実力者」と呼ばれた鄧小平との直談判に臨む。
サッチャー首相は、鄧小平が持つ「絶対的な権威の発揮、一人の人間に集中した権力の大きさなど、そのすべてに圧倒されたかのようだった」。まさに“位負け”である。ならば交渉は最初から鄧小平主導で進められたとしても不思議ではない。
縷々説明を重ね説得を試みるサッチャー首相に向かって、「どのような条件で(香港を)われわれのものにするかは、私たちが決めることであって、あなたに発言権はない」と鄧小平はピシャリと釘を刺す。だがサッチャー首相は「いずれにしても、イギリスの統治と言う後ろ盾がないかぎり、(内外の)投資家はお金を出すことはないでしょう」と食い下がった。
「これを聞いて鄧小平の怒りにみるみる火がつ」き、「香港の繁栄を決めるのは、イギリスの為政者ではなく、中国の政策だ」と傲然と言い放つ。この瞬間、返還交渉の帰趨は定まったのである。
それというのも「あらゆる面で中国の立場は強力である反面、イギリスは非常に弱い立場から議論しなければならなかった」からである。そこには、香港の殖民地化の過程で明らかにされた大英帝国と清朝の関係を逆転させたかのような力の差が認められる。かつて「非常に弱い立場から議論しなければならなかった」のは大英帝国(イギリス)ではなく、じつは清朝(中国)だった。だがアヘン戦争から百数十年が過ぎた20世紀後半、「イギリスの交渉当事者たちが相手にしなければならなかったのは、〔中略〕絶大な権限を持つ政権であり、民族感情をたぎらせ、失われた領土の回復に執念を燃やす人びと」に変っていたというわけだ。
習近平政権が率いる現在の中国は、中英両国が交渉を重ねていた1980年代初頭とは比較にならないほどに強い影響力を持つ。加えて「絶大な権限を持つ政権」は紅衛兵、紅小兵世代が担っている。
1972年のニクソン訪中を実現させて以来の米中関係に多大な影響を与え続けるH・キッシンジャーは『中国』(岩波書店 2012年)の中で、この世代の姿勢の背景に「中国の歴史的な栄光を現代に回復し、『世界でナンバー1になる』〔中略〕。そのためには米国に取って代わる必要がある」といった考えがあると指摘している。
そういえば毛沢東が社会主義超大国時代のソ連を向こうに回して自らの優位性を示すべく1958年に打ち出した大躍進政策のスローガンは、「超英趕美」――当時は世界第2位の経済大国であったイギリスを「超(おいこ)」し、超大国の「美(アメリカ)」に「趕(おいつ)」け――だった。すでに中国はGDPで世界第2位だった日本を「超」えた。ならば次の段階として「趕美」に突き進むことは必然の勢いだ。たとえ、それが独善であったとしても、である。
おそらく習近平政権にとっての香港問題は国際社会が注視する民主化云々とは別の次元で、「趕美」の域に突き進んでいるのではないか。それはパーシー・クラドックが香港返還交渉の過程で思い知った「中国にとってもっとも重要な問題は主権の回復」という問題に繋がるに違いない。
中国と向き合った長い外交官生活を振り返ってパーシー・クラドックは、「『一国二制度』はおそらくその言葉どおりの意味しか持たず、中国の共産主義はいずれにしても独裁と抑圧の体制にほかならない」。だから「われわれはあくまでも共同声明にそってすべての事を進めるしかなかった」と諦めにも似た思いを残す。
そして中国の将来を予測して、不確実性が少なくなく楽観的予測は禁物としながら、「どのような変革の形がとられようとも、中国の力は今後も大きくなっていくことに間違いはない」。「西洋にとっては今後も遠い異郷の地にとどまりつづけるであろう社会、急速な経済成長を続けながらも相変わらず粗削りで独断的な政治政策を行っている国」の明日を見据え、「将来的にはもはや共産主義とはいえなくなり、ただ民族主義だけを鼓吹する国に変わるに違いないこの国を、いまから十分に研究しておかなければならない」と結んだ。
偶然の一致だろうか。パーシー・クラドックの指摘に先立つ60年ほど昔の1935年の時点で共産党政権の将来を予測した中国人がいた。20世紀中国を代表する英語の使い手でユーモリストとして知られる林語堂だった。当時は国民党による包囲殲滅作戦から逃れ、紅軍が命からがら延安に辿り着いた前後であり、共産党は崩壊寸前だった。1949年の建国など、当の毛沢東ですら予想だに出来なかっただろう。