中華人民共和国特別行政区となった香港に「一国両制」の下での「高度な自治」を認め、「繁栄の維持」と「50年間の不変」を内外に約束した鄧小平は、92年の波瀾に富んだ生涯を北京で終えた。1997年2月19日21時が過ぎた頃である。
翌払暁、雨に煙る香港のヴィクトリア港に停泊する船舶からは、次々に霧笛が鳴り響いた。篠突く雨の中、ほの暗い街を走って、筆者は新聞売りスタンドを目指した。うず高く積まれた鄧小平の死を伝える新聞を求めて誰もが先を争っていたことを、今でも鮮やかに思い出す。あの朝、香港の街は返還を成し遂げた中国の指導者の死を悼んだはずだ。
「中国に戻った香港を、自分の足で歩きたい」と望んでいたとされる鄧小平の死から5カ月ほどが過ぎた7月1日、1840年のアヘン戦争を機にイギリス殖民地となってから140余年。殖民地を脱し、香港は晴れて中国回帰を果たした。関係各国指導者を招いた返還式典に臨んだ江澤民国家主席(当時)は、内外に向かって「香港明天更好!(香港の将来は、もっと素晴らしい)」と胸を張った。
殖民地から特別行政区へと激変した6月30日から7月1日にかけ、香港の空が晴れることはなかった。雨に濡れて歩きながら、明るさに包まれた香港を体感したことが忘れられない。とはいえ誰もが手放しで喜んだわけではないようだ。大手を振ってやって来るに違いない強欲で強圧的な共産党に対し身構える者も、少なくなかっただろう。
あれから23年が過ぎた今(2020)年7月1日、全国人民代表大会(国会に相当)の常務委員会が「香港版国家安全法」を制定した。どうやら鄧小平の約束は習近平政権によって反故にされてしまったようだ。そうなることを覚悟し備えていた友人は、「それにしても性急に過ぎる」と呟く。この日、香港の街は自由を奪った中国の指導者を恨んだに違いない。
1997年の返還が現実に近づくに従い「治港」、つまり特別行政区における“政治のかたち”――直接的には香港のトップである行政長官を誰が務めるか――に関する議論が起こった。香港の民意を代表する人物による「港人治港(香港人による統治)」、地場の企業家による「商人治港」、駐留解放軍による「軍人治港」、親中系による「京人治港」、さらには共産党が直接管理する「共党治港」など様々な考えが見られた。
もちろん最も望ましいとされたのは住民一般の普通選挙によって選ばれる行政長官による「港人治港」であり、最も忌避されたのは「共党治港」である。
初代長官の董建華から董建華(企業家)、曽蔭権(官僚)、唐英年(企業家)、曽蔭権(官僚)、梁振英(企業家)を経て現在の林鄭月娥(官僚)まで見ると、歴代行政長官は共に香港育ちという側面からして、辛うじて「港人治港」と言えないこともない。だが彼らは全て中央の共産党政権に“公認”され、そのうえに親中姿勢を示す名士で構成された長官選出機関による制限選挙によって選ばれて来た。それだけに、実質的には「京人治港」に近かったと言える。
中央政府による香港統治を突き崩し、普通選挙による長官選出を求めたのが、2014年秋の「雨傘革命」だった。だが、内外メディアが高揚して伝える報道振りにもかかわらず、民主勢力による2014年秋の試みは一敗地に塗れてしまった。
「雨傘革命」が挫折した要因
ここで改めて「雨傘革命」が挫折した要因を指摘しておきたい。なぜなら、今回の「香港版国家安全法」を受け入れるに至った香港社会の基本構造が当時から大きな変化をみせたとは思えないからである。この構造にメスを入れない限り、香港社会を民主的に造り変えることは期待薄と敢えて指摘しておこう。
たしかに昨年6月以降の200万人余を動員したと報じられた市民運動や、全身黒ずくめの「勇武派」と呼ばれる勢力などによる過激な反中街頭行動を知れば、香港社会の反中世論は劇的に高まったと思うに違いない。だが、にもかかわらず「香港版国家安全法」は制定されてしまったのである。
習近平政権の強圧的姿勢は性急で異常に過ぎる。だが唯々諾々であれ不承不承であれ、習政権の意向を受け入れる仕組みが香港側社会に組み込まれていたことも忘れてはならない。あえて誤解を恐れずに言うなら、香港が「金の卵を産む鶏」であるための基本的な社会構造を抜きにした民主化論議は、やはり夢物語に近いと言わざるをえない。