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2021年4月17日

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英王室のエディンバラ公爵フィリップ殿下は4月9日、ロンドン近郊のウィンザー城で亡くなった。99歳だった。73年以上連れ添ったエリザベス女王を常に支え続けたことで、イギリス国内だけでなく、世界的に広く尊敬される存在となった。

しかし、「女王の配偶者」という役割は、決してたやすいものではなかった。誰にとっても難しかったはずだが、海軍将校で護衛艦の艦長を務め、海軍での将来を嘱望されていた男性にとってはなおさらだった。ましてや、様々な事柄について確たる意見を持っていた男性にとっては。

とはいえ、そうした強い性格の人だったからこそ、エディンバラ公は女王の伴侶としての責務を効果的に果たしたし、王女から女王になった妻を全面的に支えることができたと言える。

女性君主の男性配偶者として、フィリップ殿下には憲政上の公的な地位はなかった。しかし、フィリップ殿下ほど女王に近く、女王にとって大事な存在はほかにいなかった。

ギリシャからイギリスへ

「ギリシャのフィリップ王子」は1921年6月10日、ギリシャのコルフ島で生まれた。出生証明書には1921年5月28日と記載されているが、これは当時のギリシャがグレゴリオ暦をまだ採用していなかったためだ。

父親は、ヘレネス国王ゲオルギオス1世の息子、「ギリシャとデンマークのアンドレオス王子」だった。祖父ゲオルギス1世は、フィリップ殿下が生まれる8年前に暗殺されている。

母親はバッテンベルク家のルイ王子の長女、アリス王女だった(一家は第1次世界大戦中、イギリス風に「マウントバッテン」と改姓)。

アリス王女はヴィクトリア英女王のひ孫で、後にイギリス最後のインド総督、「ビルマのマウントバッテン伯爵」となったルイ・マウントバッテン卿の姉でもあった。つまり、フィリップ殿下はヴィクトリア女王の子孫として、エリザベス女王とは遠縁に当たる。

ギリシャで1922年に政変が起きると、アンドレオス王子と家族はギリシャから追放された。1919~1922年にギリシャ王国とトルコが戦った戦争で、ギリシャが大敗した責任を軍事法廷で取らされたからだ。

遠縁にあたる英国王ジョージ5世が軍艦を派遣し、家族を救出。一家は海路、イタリアへ避難した。1歳半のフィリップ王子は艦上で、オレンジの木箱をベッド代わりに寝かされていた。ジョージ5世がギリシャの親類をこうして助けたのは、1917年にやはり遠縁にあたるロシアの皇帝ニコライ2世と家族を、革命勢力から救出できなかったことを後悔していたからだとも言われている。

一家はやがて、パリ郊外サン・クルーにある親類のコテージにたどりついた。フィリップ殿下は近くの学校に通い始める。姉4人の下の末っ子、ただ1人の男の子として、温かい家族に囲まれて過ごした。


しかし1930年になると、熱愛していた母アリス王女が統合失調症と診断され、精神病院に入院することになった。

生まれつき耳が聞こえなかったアリス王女は、活発で勇敢な女性で、1912~1913年のバルカン戦争の最中にはフローレンス・ナイチンゲールのように最前線の野戦病院で兵士の看護に携わった。それから30年後の第2次世界大戦中には、アテネの自宅にユダヤ人をかくまい、後にイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」としてたたえられている。

しかし、1922年にギリシャから逃れて間もなく、アリス王女の行動は不安定になり、自分はキリストと結婚した地上唯一の女だと妄想している統合失調症だと、医師に診断された。フィリップ殿下の祖母にあたるアリス王女の母は、フィリップ殿下たちが外出中にアリス王女を連れ出して、スイスの療養所に入院させた。

1930年5月のこの日を最後に、幼いフィリップ殿下が家族全員と暮らす日々は終わった。父アンドレオス王子は家族をかえりみなくなり、パリやモンテカルロ、ドイツやギリシャなどをこれといったあてもなく行き来する日々を送った。4人の姉たちは2年もしないうちに、次々とドイツの皇族と結婚。残された8歳のフィリップ殿下は、当初はロンドンのケンジントン宮殿で母方の祖母のもとに身を寄せた後、母親の伯父、ミルフォードヘイヴン子爵ジョージの居宅に引っ越した。その後8年間、殿下は「ジョージー伯父さん」を保護者として、複数の寄宿学校で学んだ。

英南部サリーの小学校を経て、1933年になると革新的な教育者クルト・ハーン氏がドイツ南部に創設した寄宿学校シューレ・シュロス・ザーレムに入学した。ユダヤ系のハーン氏が間もなくナチス・ドイツの迫害を逃れて英スコットランドに移ったのに合わせて、ハーン氏が新たに創設した寄宿学校ゴードンストンに転入した。

母が療養所に入院させられて最初の2年間、殿下は数えるほどしか母親に会えなかった。その後の5年間は、アリス王女の状態は以前より落ち着いていたものの、息子との音信は途絶えていた。これが自分にどう影響したか、後に伝記作家に聞かれた殿下は、「ただ日々を過ごすしかなかった。そういうものだ」とだけ答えている。

フィリップ殿下の幼少期について伝記を出版した歴史家フィリップ・イード氏は、「8歳にしていきなり両親や4人の姉と引き離され、二度と同じ家で家族と暮らすことがなかった」経験の影響について、こう書いている。

「後に公務であちこちへ行くようになると、何かと人に詰問したり、ずけずけ問いただしたり、時に驚くほど単刀直入でぶしつけな発言をすることがあり、やがてそういう人だという定評につながった。友人に対しても自分の気持ちを表に出そうとせず、ぶっきらぼうでずけずけと物を言うその態度は、親しい仲間にも強い印象を残した」

「自分の感情を隠しがちなだけに、時にいきなりとげとげしく、よそよそしくなるその姿に、親しい友人でさえ驚くことがあった。これは不安定な幼少期の影響だろうと思われていた」

海軍へ

スコットランドの寄宿学校ゴードンストンでフィリップ殿下は、やっとひとつの場所に落ち着くことができた。家族がばらばらになり、あちこちへ転々とする不安定な幼少期を経験した殿下にとって、自律と規律を重視するハーン校長が築いたゴードンストンの校風は理想の環境だった。10代になってついに安定した安住の場所を得た殿下は、ここで学業のほかスポーツや演劇などに取り組んだ。

しかし1937年になると、姉の1人と家族が飛行機事故で死亡。16歳の殿下に訃報を伝えたハーン校長は、殿下が「泣き崩れたりせず」、「男らしく悲しみを受け止めた」と書いた。しかしフィリップ殿下自身は、「とてつもない衝撃だった」と後に話している。

ドイツとの戦争がいつ始まってもおかしくない時世にあって、フィリップ殿下は軍人を志した。英空軍を希望したものの、母方のマウントバッテン家は海軍や海とのかかわりが深く、殿下は結局、海軍士官候補生として英南東部ダートマスの海軍兵学校に入学した。このとき海軍にするよう殿下を説得したのが、おじのルイ・マウントバッテン卿だった。

1939年7月に、英国王ジョージ6世が王妃や2人の王女を連れて兵学校を訪問した際には、フィリップ殿下がエリザベス王女とマーガレット王女の案内役を務めた。この段取りを手配をしたのも、マウントバッテン卿だった。

この出会いがエリザベス王女には決定的なものとなった。王女はこの時、恋に落ちたと言われている。

一方のフィリップ殿下は5歳年下の13歳の少女にいきなり恋したわけではなく、戦時中の1943年末、ウィンザー城でクリスマス休暇を過ごしたころに初めて、王女の気持ちを返すようになったとみられている。

フィリップ殿下は兵学校で頭角を現し、1940年1月には首席で卒業。士官候補として任官し、インド洋で初の軍務に就いた。

次に地中海艦隊の英戦艦ヴァリアントに異動し、1941年のマタパン岬沖海戦での働きは後に殊勲報告で取り上げられた。

艦のサーチライトを担当していた殿下は、夜間の作戦行動で重要な役割を果たした。

「別の艦を発見してその中央部分を照らし出したところ、その艦は至近距離から大量の砲撃を受けて直ちに消え去った」と、殿下は2014年にBBCラジオに話している

1942年10月までには、英海軍で最も若い中尉の1人として、駆逐艦ウォラスに乗艦していた。

婚約

この間、殿下と若いエリザベス王女は文通を続け、殿下はたびたび王室に招かれ、居宅に滞在していた。

1943年のクリスマスに殿下がウィンザー城を訪れた後、エリザベス王女は海軍の制服姿の殿下の写真を、自室に飾るようになった。

2人の恋愛は戦後になって本格的に花開いた。殿下からのプロポーズは、1946年の夏にスコットランドの王宮バルモラル城に滞在中のことだったと言われている。

殿下は国王ジョージ6世に王女との結婚の許可を求めたものの、当時は一部の廷臣がフィリップ殿下を「ドイツ的」で「荒っぽくマナーが悪い」と嫌っていた。マウントバッテン卿がおいを通じて、王室内で自分の勢力を伸張しようとしていると警戒する廷臣も大勢いた。

ジョージ6世はむしろ、やっと戦争が終わったばかりなのにまだ若い大切な長女を手放したくないという気持ちから、当初は結婚を認めるかためらっていたようだ。しかし、エリザベス王女はフィリップ殿下に夢中だった。

そしてフィリップ殿下にとっては、8歳で失った家族との暮らしを、やっと手に入れるチャンスだったのかもしれない。

王室の邸宅に滞在後、殿下はエリザベス王妃(エリザベス女王の母)への礼状で、「家族で一緒に楽しく過ごすその素朴な喜びと、私もご一緒して楽しんで良いのだと、歓迎されていると感じる」ことをいかにありがたく思っているか、書いたこともある。

幼いころに「その素朴な喜び」を失った殿下が、自分の家族を持ちたいと強く願ったとしても不思議ではない。

しかし、2人の婚約を発表できるようになる前に、殿下は国籍と姓を変える必要があった。ギリシャ王族の王子の地位を捨て、イギリス市民になり、そして母方の姓「バッテンベルク」をイギリス風に変えた「マウントバッテン」を名乗ることにした。

結婚式の前日になると国王ジョージ6世が英王室の「His Royal Highness(殿下)」の称号を与え、結婚式の朝にはエディンバラ公爵とメリオネス伯爵とグリニッチ男爵の地位を与えられた。

結婚式は1947年11月20日、ロンドンのウェストミンスター寺院で行われた。当時のウィンストン・チャーチル首相は、戦後の物資不足などに苦しむイギリスに「きらっと光る彩り」が差し込む機会だったと語った。

海軍将校としてのキャリアは中断

結婚後、エディンバラ公爵は海軍の軍務に戻り、地中海のマルタへ赴任することになった。ここで夫妻は短期間ながら、一般的な駐在武官の生活を送ることができた。

長男のチャールズ王子は1948年にバッキンガム宮殿で生まれた。長女のアン王女は1950年に生まれた。さらに1960年にはアンドリュー王子、1964年にはエドワード王子と家族は増えていった。


公爵は1950年9月2日に、海軍将校なら誰もが目指す艦長に就任。調査船マグパイの艦長となった。

しかし海軍でのキャリアは間もなく中断を余儀なくされる。国王ジョージ6世の体調が悪化し続けていたためだ。エリザベス王女は父王の公務を代行することが増え、それには夫の支えを必要としていた。

エディンバラ公爵は1951年7月、軍務を退いた。海軍の現役将校として任務に戻ることはなかった。

当時の同僚たちは、公爵があのまま勤務を続ければ英海軍の武官トップ、第一海軍卿にまで上り詰めたかもしれないと評した。

公爵自身、いったん決めたことをいつまでも後悔し続けるような人ではないものの、海軍でのキャリアを続けられなかったのは残念だと、後に発言している。

軍務を離れた公爵はエリザベス王女と共に1952年、英連邦加盟諸国の歴訪に出かけた。これはそもそも国王夫妻に予定されていた長旅だった。

世界の半分が

王女と殿下は、王の訃報が届いたとき、アフリカ・ケニアの狩猟小屋に宿泊中だった。

国王ジョージ6世は1952年2月6日、冠動脈血栓症で亡くなった。それを受けて、「今やもう、あなたが女王だ」と妻に告げる役目は、フィリップ殿下に託された。

この時のフィリップ殿下は、まるで「世界の半分」が自分の上に落ちてきたような様子だったと、近くにいた友人は後に語った。

海軍でのキャリアを失った殿下は、自分の役割を真新しく模索しなくてはならなかった。女王の配偶者の役割とはいったい何なのか、決まった答えは当時まだなかった。

戴冠式を前に王室は勅許状を発表し、あらゆる場面でフィリップ殿下は女王の次席として他の全員の上位に立つものの、憲政上の公式な権限はもたないと表明した。

そうした立場で殿下は、王室や王制をいかに現代社会に見合う形で刷新するか、様々なアイディアを持っていたものの、王族や廷臣の間の守旧派から強固な抵抗に遭い、王室改革の可能性に幻滅していった。

子供たちの姓も

公爵は代わりに、友人たちとのつきあいに時間を割いた。ロンドン中心ソーホーのレストランで毎週、男同士の親しい仲間たちと個室で会食したほか、気心の知れた友人たちとの昼食会も相次いだ。ナイトクラブにも良く通った。華やかな同伴者といる様子を撮影されることも、しばしばだった。

公式な権限は与えられなかったものの、家族の中ではフィリップ殿下が家長だった。それでも、自分の子供たちの姓を、自分と同じものにすることはできなかった。

エリザベス女王は1952年、一家の姓は「マウントバッテン」ではなく「ウィンザー」になると決定するに至った。これはフィリップ殿下にとって、大きな打撃だった。

「私はこの国でただ1人、自分の子供たちに自分の名前を与えられない男だ」と、殿下は友人たちに不満を漏らしていた。「自分はただのみじめなアメーバだ」と。

(編注:王室によると、王家の姓は「ウィンザー」だが、1960年に女王夫妻は、王女や王子ではない自分たちの直系の子孫や、他家に嫁ぐ女性王族は「マウントバッテン=ウィンザー」を名乗ってもらいたいと表明した)

子供の親として、フィリップ殿下はぶっきらぼうで無神経に見えることもあった。

チャールズ皇太子の伝記作家ジョナサン・ディンブルビー氏によると、皇太子は子供のころ人前で父親に叱責されて泣き出してしまったこともあるし、父と長男の関係は決して平坦なものではなかった。

気骨

フィリップ殿下は、チャールズ皇太子の教育について、自分が学んだ英スコットランドの寄宿学校ゴードンストンに同じように行かせるのだと決めていた。引っ込み思案な性格の息子を、学校の規律が鍛え上げてくれるものと、良い意味で期待していたからだ。

しかし皇太子はゴードンストンが大嫌いだった。ホームシックになり、しばしばいじめられ、みじめな思いをしながら学校生活を送った。

長男の教育に関する公爵の態度は、自分自身のつらい、そして時には孤独な生い立ちを反映したものでもあった。公爵は幼くして自分のことは自分でするしかなかったし、自分のような気骨や意志の強さを誰もが持ち合わせているわけではないのだと、なかなか理解できなかったのだ。

若者が1人で生きる力や独立心を育てたいと願う殿下の気持ちは、やがて1956年に「エディンバラ公爵賞」の創設という形で結実した。

エディンバラ公爵賞は大成功を収めた。世界中の15歳~25歳を対象に、チームワークや状況対応能力、自然を尊重する心などの育成を目的とした様々な野外活動を通じて、身体的にも精神的にも情緒的にも困難を克服し成長する機会を、長年にわたり提供してきた。創設以来、プログラムの参加者は約600万人。障害のある若者も大勢参加している。

「どのような分野の活動でも、若者に成功する機会を与えれば、その成功体験による感動が、大勢に伝わる」と、殿下はかつてBBCに公爵賞の意義を話していた。

殿下は生涯を通じてエディンバラ公爵賞の推進に多くの時間を割き、日々の業務や数々の式典に関わり続けた。

道徳的な道理

殿下は、野生動物や環境の保護も熱心に推進した。ただしインド訪問中の1961年にトラを撃ち殺したことは激しく批判されたし、その殺したトラを狩りの成果として見世物にする写真が公表されたことで、さらに批判は高まった。

それでも殿下は、世界自然保護基金(WWF)を精力的に支え、名誉総裁に就任した。

「この地球上にこれほど見事なまでに多彩な生き物が住んでいるのは、素晴らしいことだと思う」と、殿下はかつてBBCに話した。

「それに加えて、もし自分たち人間に生きるか死ぬかを決める力があるなら、絶滅か生存かは私たち次第だというなら、道徳的に理にかなった形でその力を行使すべきだと思う。絶滅させる必要がないなら、なぜ絶滅させなくてはならない?」

ただし、ライチョウなどの狩りを擁護するその姿勢は、一部の自然保護活動家の怒りを買った。

「狩りの獲物となっている種の場合、来年も獲物としたいから生き残って欲しいわけだ。農業と一緒だ。作物として収穫したいだけで、根絶させたいわけではない」というのが、狩猟に関する意見だった。

その一方で、世界の森林保護に尽力し、水産資源の乱獲に反対し続けた活動は、広く称賛された。

歯に衣着せぬ

フィリップ殿下は製造業にも強い興味を示した。各地の工場を視察して回り、工業協会のパトロンにもなった。

1961年には経済界の集まりで典型的に直接的な物言いで、「皆さん、だらだら時間を無駄にするのはもうやめましょう」と言ったりした。


歯に衣着せぬ発言の数々は、傲慢さの表れと受け止められ、批判された。とりわけ海外訪問中となると、状況をかなり読み間違える人だという評判は、確実に固まっていった。

特に、1986年に女王と共に中国を公式訪問した際の発言が、しきりに批判された。イギリスからの留学生たちに向かって、「これ以上ここにい続けたらみんな、細いつり目になるよ」と言ったのは、内々の発言のつもりだったが、イギリスのタブロイド紙は大騒ぎした。ただし、中国国内ではそれほど問題にもならなかった。

さらに2002年にオーストラリアを訪問した際には、先住民族のビジネスマンに「まだ槍(やり)を投げ合っているんですか」と尋ねている。

こうした発言の数々はしきりに批判されたものの、その一方で、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」の規範に縛られない気概の表れだという評価もあった。

実のところ、フィリップ殿下のいわゆる「失言」の数々は、単にその場の空気を和らげて皆をリラックスさせようとしてのものだとも言われた。

殿下はその生涯を通じて、熱心なスポーツマンだった。関わった競技はセーリング、クリケット、ポロ、馬車競争などと多岐にわたり、国際馬術協会の会長も長年務めた。

夫婦の悩みに共感

ジョナサン・ディンブルビー氏がチャールズ皇太子について書いた公式伝記が1994年に出版されると、エディンバラ公爵とチャールズ皇太子の難しい親子関係があらためて注目された。皇太子が自ら長時間のインタビューに応じるなどして協力したこの伝記には、レイディ・ダイアナ・スペンサーとの結婚を皇太子に押し付けたのはエディンバラ公爵だったと書かれている。

公爵が強引で息子に冷淡だったと批判する声はたくさんあった。しかし実際には、子供たちの結婚が次々と破綻(はたん)していた当時、世間で思われている以上に、公爵は子供たちを支えようと苦心していた。

子供たちの結婚生活の問題を、率先して理解しようとしたのは公爵だった。もしかすると、自分自身が結婚によって外から王室に入った人間なだけに、それがいかに難しいことか覚えていたからかもしれない。

4人の子供のうち、アン王女、アンドリュー王子、そしてチャールズ皇太子の3人が離婚するに至り、父を悲しませた。

しかし、殿下は決して自分たちの私生活や内心の思いについて語ろうとしなかった。1984年には新聞の取材に対して、これまでも語ってこなかったのだから、今さら語り始めるつもりなどないと答えている。


高齢になっても精力的な活動ぶりは衰え知らずだった。女王と共に、あるいは自然保護基金のため、世界中を飛び回り続けたし、1994年にはエルサレムに母の墓参を果たした。エルサレムに埋葬されたいというのが、母アリス妃の願いだったのだ。

さらに1995年には、対日戦線勝利50周年を記念する行事で、バッキンガム宮殿前の大通りを行進する退役兵士たちを女王と並んで見守るのではなく、退役兵の1人として女王の前を行進した。

フィリップ殿下は第2次世界大戦中、海軍士官候補生として地中海戦線に参加しただけでなく、1945年9月に日本が東京湾で降伏文書に調印した際には、調印式の行われた米軍艦ミズーリ号の近く、英軍艦ウェルプに海軍将校として任官していたのだった。

そして殿下は、旧日本軍の捕虜となって重労働など辛酸をなめた元英兵たちが、受けた扱いを許すのが難しい、あるいはむしろ決して許すことなどできないというその心情に、表立って同情を示した。

「最愛のパパ」

1997年8月にダイアナ元妃がパリで事故死すると、イギリス国民の間で激しい王室批判が高まった。

元妃と共に死亡した恋人ドディ・アル・ファイド氏の父モハメド・アル・ファイド氏に至っては、元妃の死因審問の場で、2人はフィリップ殿下の命令で殺されたのだと発言。これは検視官が真っ向から否定した。

それでも、元妃の死を悲しみ憤る世論を前に、フィリップ殿下のつっけんどんな表向きの態度は、少しずつ柔らかなものに変わっていった。

さらに2007年には、殿下がダイアナ元妃に冷淡だったという見方を否定する目的で、2人の往復書簡が公表された。

「最愛のパパ」書簡と題された手紙の数々から、ダイアナ元妃がいかに温かい言葉でフィリップ殿下に手紙を書き送っていたかが明らかになった。殿下が義理の娘を親身になって支えていた様子も、世間の知るところとなった。

「自分の流儀」

エディンバラ公爵は、自分というものを強固に抱いた強い意志の持ち主で、独立独歩の精神の人だった。

生まれついてのリーダーだったが、イギリス社会の中心を占めるその地位ゆえに常に2番手の位置にいた。

その旺盛な競争心は、繊細かつ慎重であることを求められる立場にあって、なかなかしっくり収まらず、ぎくしゃくすることもあった。

「自分が上手にできると思うことをやっただけ」だと、殿下はかつてBBCに話した。「自分のやり方をいきなりまるごと変えるなどできないし、自分が何に関心があるかも変えられない。物事に自分がどう反応するかも変えられない。それが自分の流儀なんだから、しょうがない」。

そうして何十年と女王を支え、自分自身が支援する慈善団体や組織のため行事に出席し続けた殿下は2017年8月、ついに公務から引退した

バッキンガム宮殿によると殿下は1952年以来、単独で2万2219回もの公務に出席した。2017年当時のテリーザ・メイ首相は「公共に奉仕し続けた素晴らしい人生」に感謝すると殿下をたたえた。

さらに同年11月には、エリザベス女王との結婚70周年を迎えた。


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人工股関節置換手術を経てもなお、殿下はウィンザー城の敷地内で馬車を運転し続けた。自動車の運転も続けていたが、2019年1月には王室の居宅サンドリンガム近くの公道で交通事故の当事者になってしまった

衝突した車の女性2人が負傷する事態となり、公爵は自主的に運転免許を返納した。

2020年に入り新型コロナウイルスのパンデミックが起きると、女王夫妻は3月にロンドンのバッキンガム宮殿を離れ、近郊のウィンザー城に移った。2021年1月には2人してワクチン接種を受けた

「私の力と支え」

フィリップ殿下は自分の立場を使って、イギリスの暮らしに多大な貢献をした。そして、月日と共に変わる社会の態度に合わせて、王室がそれを受け入れられるよう、自分なりの役割を果たした。

しかし間違いなく、殿下の最大の功績は、エリザベス女王を長年にわたり常に揺ぎなく、強固に支え続けたことだろう。

イギリスの歴史で最も長く王の配偶者だった殿下は、自分の役割は「女王が女王として確実に統治できるようにすること」だとかつて伝記作家に語っていた。

そして結婚50周年を祝う金婚式の行事で、女王は自分の夫をこう称えた。

「ほめ言葉をあまり嬉しがらない人ですが、長年の間ひとえに私の力と支えであり続けてくれました。そして私と家族全員や、この国をはじめ数多くの国々が、本人は決して主張しないし私たちは決してその全容を知りえないでしょうが、それほど多大な恩義を彼から受けているのです」


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(英語記事 Obituary: HRH The Prince Philip, Duke of Edinburgh / Prince Philip: A turbulent childhood stalked by exile, mental illness and death

提供元:https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-56702865

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