米国政治の中で最も大きな論争を巻き起こす争点は人工妊娠中絶である。米国では2022年のドブス判決で、人工妊娠中絶の権利が否定された。その判決で重要な役割を果たしたのが、ドナルド・トランプ前大統領が指名した保守派判事だった。
今年の大統領選挙では、民主党のジョー・バイデン大統領はこの問題を積極的に争点化しようとしている。他方、共和党のトランプ候補は、中絶問題を岩盤支持層に対しては自らの最大の功績としてアピールする一方で、穏健な有権者からの批判を招かないように配慮するという微妙なバランスをとるよう迫られている。
トランプ前大統領の判事指名で覆る
人工妊娠中絶は、1973年のロウ対ウェイド判決の結果を受けて、女性の権利として認められてきた。公民権運動やフェミニズム運動の成果としてさまざまな権利が60年代に認められるようになったが、同判決は、第二次世界大戦後の繁栄を背景に優勢を誇ってきた民主党とリベラル派が掲げた進歩を象徴するものと位置付けられてきた。それに対し、劣勢に追い込まれていた共和党と保守派はキリスト教倫理に反する深刻な問題として中絶を位置づけ、ロウ判決打破を掲げて活動してきた。
だが、リベラル派の良心とも呼ばれた、故ルース・ベーダー・ギンズバーグ判事は、同判決の脆さを危惧していた。同判決は前段でプライバシー権という概念を提示し、それを国民の権利と認定した。その上で中絶は女性のプライバシー権に関わる問題であるため、中絶の権利が認められるという法律構成が採用された。ギンズバーグは、プライバシー権ではなく自己決定権として認めない限り、中絶の権利が覆される危険があると懸念していた。
ギンズバーグの批判は的中した。ドブス判決は、プライバシー権を合衆国憲法から導くことはできないとし、プライバシー権を根拠として中絶の権利を認めることはできないと判示した。
9人からなる連邦最高裁判所判事は、長らく保守派4人、リベラル派4人、保守寄り中道派1人という構成となっていたが、トランプ大統領が3人の判事を指名する機会を得た結果、保守派6人、リベラル派3人と保守派優位に変化した。ドブス判決は、その帰結だった。それ以降、州政府が人工妊娠中絶の是非を決定することができるようになったのである。