その鍵は、チベットがインドから輸入して以来燦然と栄えてきたチベット仏教文化にある。チベット、とりわけその都ラサ(聖地の意)に見られる大伽藍の偉容は、今日でも人口約600万人に過ぎないチベット人の帰依のあらわれというだけでなく、モンゴル人や満洲人などの騎馬民族、さらには漢人の仏教徒にとっても限りない魅力を歴史上放って来たことのあらわれである。少しでも北京やモンゴルを歩いたことがある人であれば、チベット仏教はチベットの仏教なのではなく、仏教全体の歴史における重要な存在であり、チベットを中心に広がったユニバーサルな文化システムであることを即座に理解できるだろう。中共中央の所在地である「中南海」の北にそびえる「北海の白塔」は、ダライ・ラマ5世の北京訪問を記念して建立されたものであり、穿った見方をすれば、中共はダライ・ラマの後光を受けているとすら言える。
チベットは、まさにチベット仏教文明の源であるがゆえに、元代以降の内陸アジア・東アジアの権力者に「チベットを保護することは栄誉である」という観念を植え付けた。元のフビライは高僧パスパを国師に迎え、明は彼らが欲する軍馬を携えて北京に至ったチベットの僧侶に破格の称号や莫大な土産を与えて国庫を傾けた。清はモンゴル系オイラートの国家・ジュンガルと、チベット仏教の保護者の座を争う血みどろの角逐を繰り広げた挙げ句、1720年にはチベットを管理下に置き、1750年代にジュンガルを滅ぼした。その結果、ジュンガルの土地であった東トルキスタン=今日の新疆ウイグル自治区が北京の支配下に入ったことは、以前ウイグルの苦難に関する拙文(「チベットよりも深刻なウイグルの苦難」)で記した通りである。
清は、チベット仏教が展開しているチベット・モンゴル、ならびにチベット仏教の保護権争奪(ジュンガル打倒)とからんで支配することになった新疆について、「理藩院」という機関を通じて管理した。これは、朝鮮・琉球・今日の東南アジア諸国、そして西洋諸国などとの朝貢関係を、「礼部」という機関を通じて管理したのとは異なる。
チベットと「中国」は一種の同君連合
このような状況のもと、チベットと「中国」の関係は、満洲人皇帝を介して間接的に関係があるというもの、すなわち一種の同君連合であった。皇帝や、その名代である軍事集団「八旗」のエリート(儒教の知識で選ばれた科挙官僚ではない!)が、仏教の中心であるチベットの平穏を目的として監視していたことは確かである。
だからといって、チベットの全ての物事を北京が管理しなければならないとは考えなかった。むしろ、皇帝の保護のもとでチベットが独自の政治を行い繁栄すれば、それだけでも十分「仏教の保護者=転輪聖王」の面子が立つと考えた。実際、前近代のチベットには僧俗官僚からなる行政機構と独自の軍隊が完備し、万国共通の汚職はあれども内政が機能し、しばしばヒマラヤ方面から侵入した外敵を独力で撃退していた。