チベットに強い不満を持ち続けた蒋介石
とはいえ、歴史はチベットに微笑まなかった。チベットのダライ・ラマ政権(これに含まれない甘粛・青海・四川・雲南のチベット人社会の近代史も複雑を極め、今回の党大会に合わせチベット人の大規模デモが起こったのは青海であるなど多くの問題があるが、紙幅の都合上省略する)は、英領インドの庇護や日本人軍事教官の指導を受けるなどして常備軍を整え、一時強勢を誇った。それにもかかわらず、独立国家としての正式な承認は諸列強から得られなかった。各国とも中華民国との関係にも配慮して国益を上げる必要上、あからさまに中華民国の主権をめぐる主張に抵触するチベット独立承認までは為し得なかったのである。チベットは1914年の「シムラ協定」で「中国宗主権下の自治邦」とされた(民国政府はそれにも不満で批准しなかった)。
こうしてチベットは1951年まで「正式な独立国家」ではないまま、英国の庇護のもと「事実上の自立」を保って来た。これに対し中華民国、とりわけ蒋介石は、国民政府の旗印のもと軍閥割拠状態を打破し強力な中央政府をつくろうとした立場ゆえ、チベットに対し強い不満を持ち続けた。そこで蒋介石は事あるごとに、ラサに軍隊を進めて対チベット主権を確立しようとしたほか、仏教を介して中国と関係を持つ人物を取り込み、チベット内部に対中融和的な気運をつくろうと躍起になった。
しかし、その試みはいつも必ず挫折した。何故なら、抗日戦争を戦う上で、チベットの後見役となっている英国の機嫌を損ねることは出来なかったからである。
このような状況は、中国ナショナリズムの側に「帝国主義が祖国とチベットの紐帯を分断し、裏切り者を利してきた。帝国主義の影響を排除するためにも富国強兵に努めなければならない。一旦帝国主義の影響が弱まれば断固として行動し、チベットを帝国主義から《解放》しなければならない」という信念を引き起こした。
しかしチベット側としては、清と関係はあったものの、「中国」であった覚えはない。しかも今や主権国家・中国は、「清から国家主権を継承した」と称してチベットの自立を脅かしていた。さらに清末以来、チベット仏教文化は「後れている」という理由でなかば否定され、全く馴染みも思い入れもない漢字文化を強要されようとしていた。