2024年7月16日(火)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年8月2日

 さらに言えば、戦いの2年前の天文21年(1552 年)10月12日付けで、信長は家臣にこう命じている。

「知多郡と篠島の商人たちが我が領内の守山と行き来することについて、従来の権利を保障する」

 篠島も知多半島の一部で、知多半島突端の沖合に浮かぶ小島だ。小さい島ではあっても三河湾の入り口を押さえ渥美半島への海上ルートの結節点だから、その重要性は高い。

 守山は現在の名古屋市守山区の西南端。瀬戸の西隣りに位置し、当時は市場も開かれる商業発展地だった。

 かつて連歌師の宗長が旅の途中、守山城に立ち寄って催した連歌興行には、清洲城から守護代・小守護代といった重臣クラスも参加しているから、もともと商業都市によく見られるような往来の自由を認められた町だったのだろう。なにせ、宗長が訪れた当時の守山の領主は松平信定といって、織田家とは敵対関係にあった三河岡崎の松平清康の叔父だった。信定は甥の清康に仕えることが不満で、信長の父・信秀と縁戚関係を結んだほどだが、それでもそんな所にノコノコやって来るのは危機管理上問題がありすぎるのだが、ともかくもそういう豊かで中立的な性格を持った小型の堺とも言えるような土地だったようだ。

 そして、その繁栄は瀬戸で焼かれた陶器を売買する市場、そしてそれを庄内川の舟運に乗せるための物流拠点として実現されていたのだろう。瀬戸の焼き物もまた、伊勢湾から知多半島へと運ばれ、そこから東へと売られていったのだ。

 このときから6年後に起こった桶狭間の戦いでは、熱田大宮司千秋家の当主・季忠が抜け駆けの一員として義元本陣に突撃し討ち死にを遂げているが、それからも分かる通り熱田も今川氏に既得権益を奪われないよう死にものぐるいだった。

 むろん、信長も彼らから日頃懸命な陳情を受け続けていたことだろう。

義元の「必至」へ先に手を打った信長

 要するに、だ。今川義元は、どうやっても織田信長が詰んでしまうような手を着々と打っていた、ということなのだ。将棋で言えば「必至」。

 緒川・刈谷の水野氏が孤立して攻められて今川氏に下れば、知多半島全体が今川勢力圏になるのは時間の問題。常滑や大野の高付加価値を持つ産品も今川氏の管理下となり、さらには羽豆岬を経由して東につながる熱田の商業権益も失われてしまう。

 津島と熱田を財政基盤の二本柱としていた信長にとっては、これ以上無い大打撃だ。それどころか、熱田の商人たちが今川氏によしみを通じるようなことにでもなれば、信長にとってゼロになるのではなくマイナスになるではないか。

 信長は、義元の村木砦築城に秘められたこの遠大な必至プランを正確に見抜いた。この必至は何がなんでも阻止しなければ、あと1手か2手で完全に詰む。そうなってからでは遅いのだ。

 これが、信長が暴風の中を強行渡海して知多半島に渡り、村木砦を1日で攻め落として寺本城の周辺を焼き討ちしてから凱旋した理由だった。

 村木砦攻めで織田勢からは、信長側近の小姓にも戦死者が出た。いかに戦いが激しく、信長みずからも危険な場面があったかということが分かる。それでも信長が犠牲をいとわずミッションをクリアした理由は、これまで書いてきた通りだ。

 戦いが終わったあと、那古野(現在の名古屋。信長の本拠、那古野城の周辺)の留守番をしていた美濃の武将・安藤守就が帰って斎藤道三に復命したとき、道三が「すさまじき男、いやなる人にて候よ」とぼやいた話はすでに紹介したが、これは信長の烈しい戦い方だけでなく、今川義元の手を読み切り相手の想定外の1手で迅速に封じてみせたことに対する賞嘆だったのではないか。

豊明市の桶狭間古戦場にある今川義元の墓

 そして、信長がこの1手を実行し成功させたことは、違う方面でも良い結果を呼んだ。水野氏との関係を固め、熱田との信頼関係を強化したことが、6年後の桶狭間の戦いでも生きたのだ。

 信長によって包囲封鎖された大高城・鳴海城を解放しようと尾張に侵攻した今川義元に対して、水野氏は織田方として大高城包囲などに尽力し、熱田の千秋氏はみずから先駆けとして命をなげうった。尾張の「奇特権益」層が信長の永楽銭の旗印の下、強固な一枚岩となる。そりゃそうだ、自分たちと価値観を共有してくれる信長に賭けるしか、彼らには選択肢は無いのだから。

 これが結果として圧倒的優勢な今川義元軍を撃破するという大戦果を生んだ。義元は自らの命を、必至を狙った布石の全てともども一挙に失ってしまったのだ。


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