「瀬戸物」の安売り防ぐブランド戦略
話のついでに、信長が守り抜いた瀬戸焼・常滑焼のその後について紹介しておこう。
桶狭間の戦いから3年後の永禄6年(1563年)12月に彼は「瀬戸物については、各地の商人が国内を自由に往来できるように。新しい税なども賦課してはならない」と保護を強化する姿勢を見せ、さらに美濃を併合し、上洛戦を成功させた。将軍・足利義昭を追放したあとの天正2年(1574年)1月12日には、加藤景茂(かげもち)という瀬戸の陶工に対して「瀬戸の焼き物窯は従来通り瀬戸でだけ操業することとし、よそでは一切焼いてはならない」と保証を与えた。
瀬戸物という地元・尾張の名産品を保護しようというのだ。ちょっと前まで、この信長のお達しは瀬戸焼にだけ特権を与えることで常滑焼を圧迫して衰退させた、などと説明されてきたが、なにもそんな難しい解釈はしなくても良いんじゃないか、と思う。文面をどう読んでも、単純に瀬戸以外で瀬戸物を焼くな、としか受け取れないからだ。
瀬戸の窯業は、天文頃にはすでに美濃などへの陶工の移動が起こってやや衰えを見せていたという。よそへ移った陶工は、そこでも「瀬戸焼」を名乗って製品を売る。あちらの窯もこちらの窯も人気の「瀬戸焼」を名乗って売りたがる。そう、まるで現代における「和牛」「高級イチゴ」ブランドのように。
信長は、これにノーを突きつけたのだ。高級腕時計や皮革製品のブランドが生産数を厳しく制限して安売り競争に陥るのを避け、価格を維持するのと同じで、「瀬戸で焼かれたものだけが〝瀬戸焼〟〝瀬戸物〟を謳って良い」と宣言し、そのうえ瀬戸焼のブランドの保証を織田家が請け負う、とぶちあげたことにもなる。この時期、瀬戸焼は日用品の雑器が多く作られるようになっていたが、信長のおかげでブランドイメージは維持され、黄瀬戸など高級茶器が登場することになる。
信長お墨付きの瀬戸焼というブランドは、価格も維持でき箔もついた。競争力も高まり、儲けの一部は税として織田家の金蔵へ、という寸法。信長はブランドロイヤリティを巧みに築き上げる戦国時代のマーケッターだった。
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