2024年12月22日(日)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年11月22日

 劉雲山はさほど下馬評は高くなかったし、改革派知識人やジャーナリストから見れば、宣伝部門を長く統括し、江に引っ張られた劉は「言論弾圧の元締め」ととらえられた。北京の外交筋も「地方勤務経験の乏しい劉に序列5位の国家副主席は務まらないだろう」と解説した。しかし江の後ろ盾があり、人事案に名前を連ねた。

 一方の兪は、8月にまとまった人事案では常務委ではなく、「国家副主席」への起用が検討された。「政治局員は2期まで」を破る特別待遇も検討されたのかどうかは定かではないが、9月に入り、江が兪の常務委入りを強力にプッシュした。

激しさ増した「長老政治」

 共産党関係者は「江沢民の背後で動いたのは、曽慶紅前国家副主席だった」と指摘する。「太子党」の大物である曽は、江の腹心として仕え続け、その幅広い人脈と人を引き付ける人柄で「寝業師」の異名を持つ。前回党大会(07年)で68歳の定年をわずかに超えたため引退したが、引退後も裏舞台で動いていた。

 9月22日、「北京・国家大劇院で江が王冶坪夫人を伴い歌劇を鑑賞した」と香港紙が報道した。そこに付き添ったのも曽であり、今も続く2人の緊密な関係を内外に示した。曽は党大会開幕・閉幕にも登場したが、染めたとみられる真っ黒な髪と、73歳にしては若々しく艶のある顔に、副主席時代と同じ権力者としての姿が見えた。

 これ以降、党大会を前に「長老政治」は激しさを増す異例の事態が展開される。江に対抗するように、江のライバルだった李瑞環・前政協主席は、胡錦濤や温家宝と近く、薄熙来を重慶に飛ばした呉儀・前副首相と共に10月7日に北京でテニスを観戦する。さらにその2日後には江は再び登場、北京で上海海洋大学の指導者と会見。朱鎔基前首相は10月24日、側近・王岐山を引き連れ、北京で母校・清華大学の会合に出席し、李鵬についても国営中央テレビ(電子版)が革命聖地・延安の延安大学に通う経済的に恵まれない学生に援助を行っていると伝えた。

新たな人事案で変わった序列

 中国の指導部人事は「海外で言われているように『共青団』『太子党』『上海閥』で派閥分けできる単純なものではない。もっともっと複雑だ」(中国政治に詳しい学者)。長老たちは、表舞台に出ることで、何らかの政治的意図を込めたのは間違いない。江は兪ら自分がお気に入りの指導者の常務委入りを狙い、李瑞環は出しゃばる江をけん制しようとした。朱鎔基は最も露骨で、王岐山の序列を上げようとしたのではないか。李鵬は李源潮の常務委入り阻止を目指したのだろう。

 その結果、10月下旬に新たな人事案が練られた。そこには、李源潮のほか、「高調(目立ち)すぎる」(中国筋)とされた汪洋の名前はなく、兪正声が序列4位(政協主席)で入った。さらに7位とされた中央規律検査委書記の序列が、常務副首相より上位になり、王岐山は「6位・規律検査委書記」で常務委を果たした。


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