「例のフェラーリ事件が影響した。それに胡錦濤の下で薄熙来追及の急先鋒だった令に『やりすぎ』と反発が高まったことも大きい」
「フェラーリ事件」とは3月の薄熙来解任直後、北京で愛車の黒いフェラーリを運転していた令の息子・令谷が激突事故を起こし、本人は死亡。なぜか全裸と半裸だった同乗女性2人も重傷を負った。これを契機に令一家の派手な蓄財が発覚し、その後、党指導部内で問題になったのだ。
そもそも胡錦濤と温家宝が主導し、政治局常務委入りが確実視された薄熙来を解任したことで「党が二分する天安門事件以来の政治危機」(共産党筋)に陥った。結果から言うと、薄事件が胡の権力基盤を弱める契機になったとの指摘が多いが、当初、権力基盤の強化を目指して薄解任を決意した胡錦濤が目指したものの一つが、最高指導部「政治局常務委改革」だった。
政法委権力低下を狙い常務委7人体制
2002年から続いた常務委9人体制では、国務院、全人代、政協、政法(公安・司法)、宣伝・メディアなど担当が分担され、それぞれの常務委員の権限が大きくなり、総書記の決定的役割は、政治局常務委会議で意見が分かれた時に最終決定を下す、というものになっていた。特に共産党体制の存続に関わる政法委書記と宣伝担当の権限・発言権は絶大となった。暴動や抗議など「群体性事件」が年約18万件も頻発する中、今や政法が握る治安予算は、国防を上回る。薄熙来も、薄の解任に反対した「盟友」・周永康党中央政法委書記の後釜を狙った。「薄熙来は公安・司法を握り、機を見て総理の座を狙っていた」と明かすのは重慶の関係筋だ。
これに対して胡錦濤は、政法と宣伝担当を政治局常務委から外して7人体制にし、総書記を核に政策決定の迅速化・集中化を狙った。そして党の日常業務を統括する党中央書記局の権限を復活させようと考えた。組織部長や宣伝部長、弁公庁主任ら党中央の政治局員クラスで構成される書記局への影響力を行使し、政法・宣伝分野を事実上の「総書記直轄」にし、総書記の権限を高める方針だった。
「核心」になれなかった胡錦濤
さらに胡は5月、北京で「党員・指導幹部会議」を開催し、党大会での政治局常務委員・政治局員の人選に向け、会議に参加した幹部が候補者を推薦する制度を導入した(11月15日国営新華社通信)。常務委員7人を前提に、既に常務委入りし、留任が決まっていた習近平と李克強を除き、5人を推薦することになったとされる。
権力基盤強化に向けて胡錦濤が描いた戦略のうち、「常務委7人制」は実現した。しかし7人の中で、多数派または一定の割合を占めて「院政」を敷くという核心問題は、皮肉にも薄熙来事件と、薄追及の中心だった側近・令計画の不祥事の影響を受けたと言わざるを得ない。