反日デモ契機に対「薄熙来」強硬に
指導部人事をめぐり難航を極めた9月中旬。反日デモが各地で吹き荒れたが、これが薄熙来の命運を決めた、というのが、中国政治に精通した学者の見解だ。
「薄事件後の党内の混乱を受け、『低調』(控え目)に薄の処分問題を決着させようとした胡指導部は、反日デモ前後から急に強硬になった」
英国人実業家ニール・ヘイウッドを毒殺した薄の妻・谷開来の公判(8月9日)には、薄の関与を匂わす表現はなかった。しかしその後、薄の元腹心・王立軍元重慶市公安局長の公判(9月18日)では、谷の毒殺事実を報告に来た王に対して激怒した薄がびんたし、この2人の決定的対立が、王の米総領事館(四川省成都)駆け込みにつながった流れが具体的に描かれた。
薄熙来・毛沢東という亡霊
前出・学者は「胡錦濤は、薄を支持する左派勢力の台頭を恐れた。毛沢東の肖像画を掲げる反日デモ参加者に左派勢力の影を見た胡は、これら勢力を抑えるためにも薄に対する刑事責任追及という強硬な方向に転換した」と明かす。胡は9月28日の政治局会議で、11月8日の党大会開幕とともに、薄の党籍剥奪と刑事責任追及を決定したのだ。
10年前の就任当初、毛沢東の力を利用した胡錦濤も、薄熙来事件以降、「脱毛沢東」路線を強め、党大会の政治報告では「閉鎖的で硬直した『老路』(かつての道)を歩まなかった」と訴えた。しかし胡錦濤の前には、薄や毛が亡霊のように現れ、権力闘争に敗北するという結末を迎えたのだ。
■「WEDGE Infinity」のメルマガを受け取る(=isMedia会員登録)
「最新記事」や「編集部のおすすめ記事」等、旬な情報をお届けいたします。