一見、不器用な方法でもいい
長期的な視点で物事を考えよ
熊澤が造り酒屋を継いだあと、最初の大きな決断は、酒の醸造責任者である「杜氏(とうじ)」を変えることだった。
熊澤酒造は、当時、湘南地区で安価な日本酒を売っていた。ブランド力はなかった。一方、熊澤はどうしても、自分の代から“地元の人が誇りを持ってくれるようなおいしい酒を作りたい”と考えていた。
「そして、当時の杜氏さんではこれが実現できなかったのです。新潟からの出稼ぎの方で、彼は冬の間は弊社で仕事をし、春になると新潟へ戻って、全国の鑑評会に出すような銘酒を造っていた。そんな彼にとって、出稼ぎ先が“おいしい吟醸酒を造りたい”といっても、新潟で造っているお酒のことで手一杯で、面倒なだけなんです」
杜氏さんは、すぐ代わりが見つかるものではない。そして、熊澤は何度も自分の方針を理解してほしいと頼んだが、杜氏さんは「なら辞める」と心を開いてくれなかった。熊澤は“今までの路線を継承すべきなのか?”とも考えたが、あえて、勝負に出た。その杜氏さんには辞めてもらい、農業大学の醸造学科に求人広告を出したのだ。
「農業大学の醸造学科を出た方はたいてい、大手の酒造メーカーに行ってしまいます。しかしバブル後で求人が減っており、同時に“杜氏になれますよ。おいしいお酒を造りましょう”というメッセージがよかったのか、なんとか人が集まったんです」
だが、一難去ってまた一難。次は酒を売る目処が立たない。地元の酒屋さんにとって熊澤酒造は「安い日本酒のメーカー」だった。“ニーズに合わないものを造られても困る”と総スカンを喰らった。
ただし、ここでも味方が現れた。
「逆に、東京や横浜の大手酒販店さんや、地元の酒販店さんの中に“若い人ががんばるなら応援しよう”とおっしゃってくれるところがあったのです」
実は、有名なお酒のブランドの中には、開発開始当初は誰からも応援されず、むしろ「無理じゃない?」とバカにされながら造られたものが意外と多い。こういったお酒は、買える酒販店が限られている場合がある。ブランドが無名な時代から販売に力を入れるなど、応援してくれた酒販店でのみ買えるのだ。
「当然、酒販店の方たちは工場までいらして、お酒を飲み“可能性がある”と考えたもののみ応援してくださいます」
必死で目標に向かったからこそ、味方が現れたのだ。
≪POINT≫
他人から必要とされることを実行していれば、毎日の生活に困ることもないだろう。しかし、そればかりでは自分が描いたビジョンは実現できない。
他人から与えられた仕事が悪いわけではない。ただし、自分が描いたビジョンに向けて経験や人脈をもたらしてくれるものでなければ、むしろそれは、あなたのキャリアにとってマイナスかもしれない。もし、熊澤が「いつかおいしい酒を造ろう」と、杜氏さんを変えなければ、彼は今も安価な酒を造り、いまだ、自分が描いたビジョンを実現できていないかもしれない。