スポーツ名著から読む現代史

2022年1月13日

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中島章隆 (なかじま・ふみたか)

元毎日新聞運動部長・論説委員

なかじま・ふみたか 1952年長野県生まれ。元毎日新聞運動部長・論説委員。現在は立教大講師、東京プロ野球記者OBクラブ理事。月刊政策情報誌「毎日フォーラム」で2009年から「スポーツを読む」を連載している。

数々の偉業を果たした平尾の原点

 平尾の学生時代の様子は、『友情2』の中で多くの関係者が語っている。「原石」としての平尾の才能を見出したのは京都市立伏見工業高校の監督をしていた山口良治だった。

<平尾にはじめて会ったときのことは、いまも鮮明に憶えています。1977年の10月10日、「京都ラグビー祭」のときです。(略)陶化中学の「12番」をつけた選手に私の目は釘づけになりました。「あそこにスペースがあるな」と思うと、そこにボールを蹴る。「回せ」と思えば、すかさずパスを出してサポートに走る。あたかもわたしの化身のように、イメージ通りのプレーを披露してくれた。(略)この子が伏見に来てくれたら、いいチームができる。同時に、わたしがラグビーを通して体験したことを、この子にも経験させてやりたいー-そう強く願うようになったのでした>(『友情2』114~115頁)

 平尾の自宅まで足を運んで勧誘した山口の熱意が通じ、平尾は伏見工に進む。3年になった平尾をキャプテンに指名した。チーム内には自己中心的で、わがままな生徒も少なくなったが、平尾はだれよりも練習することで範を示し、チームをまとめていった。その結果が山口にとっても平尾にとっても初の「高校日本一」(1981年)だった。

 同志社大学に進み、史上初の大学選手権3連覇を達成した平尾は、1年間の英国留学を経て神戸製鋼に入社する。そこで日本選手権7連覇の偉業の立役者となる。神戸製鋼の強さの秘訣について平尾は、山中との対談で、「こっちがミスをする前に、相手がミスをする、という好循環があった」と話したうえで、こんなことを言っている。

<しばかれるとか怒られるとか、外発的なプレッシャーでやらされているチームというのも、ある程度までは上のステージに行けるかもしれないけど、絶対に一番にはなれないです。なぜなら、「ミスしたらあかんモード」に入ってしまうから。人間って、「誰かに怒られるからミスしたらあかん」と思うと、知恵が働かなくなって、さらにハイクオリティのところにいけなくなってしまうんです>(『友情』178頁)

日本代表〝多国籍軍〟の礎築く

 87年から始まったラグビーのワールドカップ(W杯)には3大会連続して日本代表として出場し、91年の第2回大会ではジンバブエ戦で日本のW杯初勝利に貢献した。95年の第3回大会で日本はニュージーランドに17―145の歴史的敗退を喫した。その大会後、日本代表は抜本的な立て直しが求められ、代表監督に34歳の平尾が抜擢された。

 代表監督に就任した平尾がコーチとして招いたのが同志社大学でのチームメートで、サントリーの監督をしていた土田雅人だった。チーム作りの考え方に土田と平尾には違いがあった。

 土田はジャパンとしての「戦い方のスタイル」を明確にしたうえで、それに合う選手を集めて鍛えるという考えだった。これに対し、平尾は特色ある選手を集め、選手個々の個性、強み、性格を見極めたうえで、長期的な視点に立って目指すべきチーム像を示すという、ある意味で正反対の考えだった。

 「個」を重視する平尾の考えを象徴するのが外国人選手の積極的な起用に現れている。日本代表の主将にニュージーランド人のアンドリュー・マコーミックを起用したほか、ジェイミー・ジョセフ、グレアム・バショップらオールブラックスで活躍した選手を日本代表に加えた。土田はこう回想する。

<外国人選手が増えたことで、「日本らしさがなくなる」とメディアから批判されたこともあります。しかし、平尾は動じません。(略)何より、外国人選手の魂は、あのときのチームに絶対に必要だったからです。実際、たどたどしい日本語で懸命にチームを鼓舞し、勝利のために率先して身体を張るマコーミックの姿を見て、日本人選手は大いに刺激を受け、大畑大介や田沼広之といった主力を担う若手が成長してきました。外国人選手を入れることに対して、平尾はこうも言っていました。「外国人が日本代表というチームで誇りをもってプレーしているのは大変すばらしいことだし、これからの日本に必要な、外国人と共存するためのひとつのモデルを示すことにもなる」>(『友情2』32~33頁)

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