2024年12月23日(月)

スポーツ名著から読む現代史

2022年1月13日

 日本ラグビーの新たな最高峰「リーグワン」が1月8日に産声を上げた。2003年に発足した「トップリーグ」を発展的に解消し、海外のスター選手も巻き込んで世界を目指す日本ラグビーの底上げを図る。

産声を上げたラグビー「リーグワン」。外国のトップ選手のプレーしている(長田洋平/アフロスポーツ)

 本来ならこの新たなスタートに、総合プロデューサー的役割で加わるはずだった男がいる。ミスターラグビーともいえる不世出のスーパースター、平尾誠二だ。高校、大学、社会人でそれぞれ主将として日本一を達成。指導者としてもたぐいまれな手腕を発揮した。

 日本代表を強くすることにも情熱を注いできたが、16年10月20日、病のため志半ばで亡くなった。53歳の働き盛りだった。今回取り上げるのは、平尾と濃密な交流を続けたノーベル賞学者・山中伸弥が、平尾を追悼するため共著者、編者として関わった『友情 平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」』『友情2 平尾誠二を忘れない』(ともに講談社)の2冊だ。「スポーツ名著」とくくったことに、あるいは違和感を抱かれるかもしれないが、交流を通じて示されたスーパースターの素顔とともに、その足跡を辿ることで、日本ラグビーのさらなる発展の手がかりにもしたい。

きっかけは週刊誌の対談

 ラグビー界のスーパースターとノーベル賞学者という異色の組み合わせだが、2人をつないだのはラグビーだった。中学、高校時代は柔道をしていた山中は、神戸大学医学部時代に同い年の平尾の活躍に刺激を受けてラグビー部に入り3年間、楕円球を追った。

 iPS細胞の研究で世界的な注目を集め、京都大学iPS研究所所長に就任した山中は10年秋、週刊誌の企画で平尾と対談し、すっかり意気投合。12年に山中がノーベル生理学・医学賞の受賞が決まると平尾がお祝いの食事会を開くなど家族ぐるみの親交をつづけた。

 2人の会話では、山中が聞き役となることが多かったという。話題となったのはラグビーそのものというより、コーチ論や組織論、人間関係など多岐にわたった。山中にとっては、説得力があり、研究チームを率いていくうえで参考になり、共感する部分が多かったという。

<彼はラグビープレーヤーとして100年に1人の選手だと思いますが、プレーヤーとして凄まじいだけでなく、日本のスポーツ界全体の常識を変えた革命児としても大きな実績を残しています。僕らが学生だった頃、日本のスポーツ界は根性至上主義でした。「死ぬまで頑張る」もしくは「死んでも頑張る」が常識のようになっていて、とにかく長時間練習し、先輩には絶対服従という体育会系の思考がよしとされていました。こうした常識を平尾さんは否定し、新たな戦略戦術を導入して、神戸製鋼ラグビー部を変えていきました。全体練習の日数や練習時間を短くし、あとは個人の判断に任せて実戦的な練習を行う、というやり方です。(略)そういう既成概念にとらわれないところも、僕は大好きでした。僕からすれば波長が合って、一緒にいるのが心地よく、彼が言うことはひとことも聞き逃すまいとしました。>(『友情』24~25頁。漢数字は算用数字に修正、以下同)


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