空前のラグビーブームを巻き起こしたラグビーW杯。日本代表はいかにして強くなったのか? 今回は2011、15年のW杯日本代表でスタッフを務めた平林泰三さんの経験や知見をもとに、日本代表の変遷から強い組織の作り方を考えてみたい。
――平林さんは1996~98年までオーストラリアのクイーンズランド・プレミアシップのGPSクラブでプレーをされ、2005年からは日本初のフルタイムレフリーとして活躍されました。世界のラグビーが大きく変わった転換期はいつだとお考えですか。
それは1995年のオープン化(プロ化)です。それ以前はIRB(現ワールドラグビー)によるアマチュア宣言というものがあり、ラグビーにおいて金銭や物品を授受してはいけないという規定がありました。当然、日本のラグビー界もアマチュアリズムが徹底されていました。
しかし、海外では91年頃からプロの選手が現れ、IRBはその流れを認めざるを得なくなり、95年のW杯後にオープン化に踏み切ったという背景があります。これを境に世界のラグビーは大きく変わっていきますので、僕が現代ラグビーと呼んでいるのは95年以降になります。
――平林さんが日本代表に直接関わり始めるのはどの時期からになりますか。
2000年の平尾ジャパンのヨーロッパ遠征前の練習に参加させてもらったのが最初の関わりで、初めて日本代表を生で見ました。1999年の第4回W杯で平尾ジャパンは初の外国人キャプテンとして東芝府中のアンドリュー・マコーミックを抜擢し、国内で活躍する外国人選手も積極的に加えて強化を図りました。しかし、サモアに「9-43」、続くウェールズには「15-64」、最終のアルゼンチン戦に「12-33」と3戦全敗。
平尾ジャパンは人気も高く、華やかで強いという期待値が高かったためにファンの落胆は大きいものでした。翌2000年のヨーロッパ遠征でも大敗を喫し平尾ジャパンは解散となりました。この平尾ジャパンには、当時サニックスでプレーしていた現日本代表HCのジェイミー・ジョセフが日本代表として出場していました。
――積極的に外国人選手を起用して強化を図った平尾ジャパンでしたが、世界の壁はさらに高かったという現実を突きつけられた大会だったと記憶しています。平尾誠二さんの後任監督は向井昭吾さんですね。
向井さんを指名したのは強化委員長の宿澤広朗さんでした。向井ジャパンの特色は首脳陣がフルタイムで強化に当たる体制を作ったことです。当時僕は日本ラグビー協会の事務局員になっていたので、向井ジャパンに外国人コーチを招くにあたってオーストラリアのギャリー・ワレスを推薦しました。
彼は元13人制のラグビーリーグの選手でディフェンスシステムの理論を豊富に持っていたからです。彼とはブリスベンで1年間一緒に住んだことがあるのでよく知っていました。この他にもグレン・エラというコーチも加わって向井ジャパンはコーチングスタッフに恵まれます。また、日本人コーチングスタッフには、当時オーストラリア協会レベル2コーチング資格を持ってらっしゃった林雅人さんもいらっしゃいました。これが少数精鋭だった平尾ジャパンとの決定的な違いで世界の最新情報が直接入ってくるような組織になったのです。
なかなかついてこない結果
――向井ジャパンの頃から日本代表の組織作りが世界に近づいていったということですが、2003年第5回のW杯でも日本代表は善戦むなしく全敗でした。しかし、地元紙に「Brave Blossoms」と称され日本代表の戦いぶりが評価されましたね。
日本代表は初戦のスコットランドに「11-32」、続くフランスに「29-51」、フィジーには「13-41」、アメリカにも「26-39」という結果でした。フルタイムのコーチによる日本代表の強化はそれなりの評価はありましたが、やはり全敗ということで向井ジャパンも解散となりました。
その後、神戸製鋼の萩本光威(みつたけ)さんが監督に就任し、新たなジャパンでヨーロッパ遠征を行いましたが、前年のW杯で善戦したスコットランドには「8-100」、ウェールズにも「0-98」という大敗を喫し解任となりました。
その後任には日本代表、初の外国人ヘッドコーチとなったジャン・ピエール・エリサルドが就任したのですが、地元フランスのクラブとの二重契約が発覚して解任されてしまったのです。海外ではどこかのHCが別のチームのアドバイザー契約を結ぶようなケースはあったのですが、当時の日本では理解されず、コミュニケーション不足も重なって解任に繋がりました。