2024年12月23日(月)

スポーツ名著から読む現代史

2021年12月26日

 「平成の怪物」松坂大輔が現役生活にピリオドを打った。1980年生まれ。横浜高校で春夏の甲子園を制覇し、ドラフト1位で西武ライオンズに入団、以来23年間にわたり、日米通算で170勝108敗(日本114勝65敗、大リーグ56勝43敗)の成績を残した。

 同学年には日本のプロ野球やメジャーリーグで活躍した選手がキラ星のように集まっている。その中でも松坂はトップランナーとして時代を駆け抜けてきた。「松坂世代」と称されるゆえんだ。その松坂と高校時代から20年余にわたり真剣勝負を繰り広げてきた同級生たちは、グラウンドを離れても松坂とさまざまに交流を深め、新たな時代を切り開いてきた。

WBCでは、松坂はじめ「松坂世代」の活躍により連覇を果たした(ロイター/アフロ)

 大阪・PL学園のエースとして甲子園で松坂の横浜高校に立ち向かい、立教大学から日本テレビに入社、看板アナウンサーとして活躍する上重聡氏が3年前、松坂を含む10人の「松坂世代」のプロ野球選手にインタビューしてまとめたのが『20年目の松坂世代』(2018年、竹書房)だ。青春時代のきらめきを振り返るだけではない。20年の歳月を経て、いくつもの挫折を味わい、「引退」の決断を迫られる苦悩も描き上げた労作だ。

松坂の球で〝進路〟を変えた4人

 同書には松坂を含め10人のプロ野球経験者が登場する。所属球団はまちまちで、ポジションも投手が6人、野手が4人。松坂のようにメジャーリーグを経験した選手もいれば、プロでは華々しい活躍ができなった選手もいる。共通しているのは高校時代の松坂に圧倒され、あるいは刺激を受け、その後の生き方に大きな影響を受けたことだ。高校で松坂と互角の投げ合いをし、立教大学でも完全試合を達成しながら、プロを選ばなかった著者も、その1人だ。

 横浜高校と同じ神奈川県の日本大学藤沢高校に通った館山昌平は2年秋の新チーム結成以来、松坂の横浜と3度対戦した。最初は秋の県大会決勝。松坂に完封され、0-9で完敗した。秋季関東大会の決勝は延長の末、1-2で惜敗。3年の春季関東大会でも決勝で対戦し、またも延長十三回の末、0-1で敗れた。

 初めて松坂と対戦した時の印象を館山はこう話している。

<「マツ(松坂)のボールはベンチで見ていても、打席に立って見てもすごかった。速かったし、スライダーのキレもすごい。ストレートは新幹線がホームベース上を通過する感じ。球の着地点があるのかと思えるほどで、どんどん加速していく」>(同書137~138頁)

 館山は日本大学に進学し、野球を続ける一方で「体育教師になる」という夢もあった。だが、ヤクルトスワローズの熱心なスカウトの誘いもあり、プロの道を選んだ。9度に及ぶ手術を克服し、抜群の制球力を武器に19年まで現役を務めた。「技巧派」とも呼ばれた力を磨けたのは、松坂の球を見たからこそ。自らが戦う場所を見つけられた。

 日大のチームメートに東福岡高校からきた村田修一がいた。村田は高校3年のセンバツに投手で3番打者として出場した。3回戦で横浜と対戦。一回、1死二塁で打席が回る。松坂との初対戦は空振り三振だった。

<「打席でスライダーを見たら、『やばい、やっぱり無理や』みたいになった。なんとか当てて前に飛ばしたいけれど、ファウルになるだけで前に飛ばなかった」>(同書79頁)


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