その年のドラフト会議で、福岡ダイエーとオリックスが新垣を1位で指名し、抽選でオリックスが交渉権を獲得した。「意中のダイエー以外なら九州共立大に進学する」と表明していた新垣の交渉は難航し、オリックスの担当スカウトが自殺するという悲しい事件まで起きた。
支え合い、高め合い続ける2人
和田は島根・浜田高校の左腕エースとして2年連続夏の甲子園に出場した。ストレートの球速は120㌔そこそこ。プロ野球は無縁の世界だと思っていた。早稲田大学に進み、同学年のトレーナーの指導でフォームを改造。球速が一気に140㌔を超し、三振をとれる投手に変身した。
松坂と初めて言葉を交わしたのは福岡ダイエーに入団し、プロになってからだという。あこがれの人に「はじめまして」と恐る恐る声をかけたところ、気さくに返事をもらい、うれしかったという。
11年のシーズンオフ、和田は海外フリーエージェント(FA)権を取得し、オリオールズに移籍した。松坂のいるレッドソックスとは同じアメリカンリーグ東部。直接対決が実現できるかと周囲は期待したが、春季トレーニング中に左ひじを故障。靱帯の損傷も見つかり、トミー・ジョン手術を受けることになった。
オリオールズでは登板機会がないまま自由契約となり、カブスと契約。そこでも2年間で5勝5敗と、本来の活躍が出来なかった。15年のオフ、古巣のソフトバンクに戻ることになった。
ソフトバンクには、1年早く松坂が加入しており、和田は初めて松坂とチームメートとなった。肩を痛めてリハビリ中の松坂は、かつての松坂の球威は戻らず苦闘の日々を過ごしていたが、同じく故障上がりの和田を気遣う松坂の心配りは以前のままだった。
松坂の引退で、和田が「松坂世代」の現役最後の生き残りとなった。松坂らとは同学年ながら1981年2月の早生まれ。世代のアンカーを務めるのは和田の宿命だったのかもしれない。
松坂より1年早く、高校2年で全国区の注目を集めていたのがた藤川球児だ。兄順一さんとの兄弟バッテリーとして夏の甲子園に出場。2回戦で敗れたものの、準優勝した京都・平安(現・龍谷大平安)高校から10三振を奪い、高校日本代表に選ばれた。
3年の春はセンバツ出場を逃し、夏も高知県大会準決勝で敗れたため、藤川は松坂と直接対戦する機会はなく、関心も薄かった。それでも松坂の噂は耳に入る。
<「大輔のピッチングを見たのは春の甲子園が最初だったかな。初めて見た時は、おじさんだと思った(笑)。もう高校生が投げている感じがしなかった。怪物だった。(略)大きなお兄ちゃんが甲子園で投げているみたいな、そのくらい年齢差を感じた」>(同書110頁)
藤川はまるで1学年上の選手のように、松坂について臆するところがない。その関係は20数年が経過した今も変わっていない。
我が道を行った2人
「松坂世代」の中で、松坂と一番古くからの付き合いがあるのは、日本ハムファイターズ時代、打点王のタイトルを獲得するなど勝負強さに定評があった小谷野栄一だ。東京都江東区内の小学生時代、ボーイズリーグで投げ合った仲だ。中学では「江戸川南シニア」で一緒になった。
松坂が横浜高校に進学することが決まると、神奈川県内の強豪校を希望していた小谷野は、東京の創価高校に進路を変更する。「松坂が横浜にいては、神奈川から(他校が)甲子園に出るのは無理」と判断したためだ。
2年の秋、創価は東京都秋季大会で準優勝し、翌春のセンバツに選ばれた。初戦で敗退したが、甲子園の土を踏んだことで、創価を選んだ小谷野少年の作戦は成功した。