2024年3月1日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2021年12月26日

 投手としての評価も高かった村田だが、松坂を見て投手を断念した。日大では速球に力負けしないスイングを作り上げた。02年のドラフトでは自由獲得枠で横浜ベイスターズに入団。横浜―巨人で15シーズン中心打者として活躍し、本塁打王に2度輝き、通算本塁打は360本。通算安打は1865本で、2000本にわずかに届かなかった。

 松坂の影響で、投手をあきらめた選手がもう一人いる。敦賀気比高校の投手兼内野手、東出輝裕だ。敦賀気比は98年春のセンバツ、夏の選手権とも甲子園出場を果たした。投手で1番打者で主将。一人3役をこなす、野球センスの塊のような選手だった。

 甲子園では横浜との対戦前に姿を消した。東出が松坂の「すごさ」に接するのは夏の大会終了後、高校日本代表に選ばれて出場したAAAアジア選手権でのこと。遊撃手として背中越しに松坂の投球を見た。

<「守っていて、全然、打球が飛んでこない不思議な感覚」>に襲われた。(同書223頁)

 投手への愛着はあったが、松坂のピッチングについて「別の競技を見ているレベル」と感じ、投手として松坂と競うより、「打席に立ってみたい」と思うようになったという。

 98年秋のドラフト会議で東出は広島の1位指名を受けた。内外野を守れる俊足好打のマルチプレーヤーとして活躍したが、2013年の開幕前、左ひざの靱帯を断裂する大けがをし、1軍出場は14年間にとどまった。

闘争心を燃やした2人

 高校時代、松坂との圧倒的な実力差を痛感させられながら、むしろそれをバネに努力を重ね、プロ入りを果たした同級生も少なくない。

 「一度でいいから松坂に勝ちたかった」と悔いを残して現役にピリオドを打った名投手がいる。甲子園大会と、プロでも「ノーヒットノーラン」を達成したただ一人の投手、杉内俊哉だ。

 最初の敗戦は高校3年の夏。鹿児島実業高校のエースとして甲子園出場を決めた杉内は初戦の青森・八戸工大一高校を相手にノーヒットノーランを達成した。続く2回戦の対戦相手が春夏連覇を目指す横浜だった。

 松坂と杉内の投手戦で五回まで両チーム無得点。六回に横浜が四球を足場に無安打で1点を奪うと、八回は松坂の本塁打などで大量5点を加え、試合を決めた。

 母子家庭に育ち、経済的負担を考えて福岡から特待生として鹿児島実業に進学した杉内。プロを目指す気持ちは強かったが、松坂との力の差を痛感し、社会人の三菱重工長崎に進んだ。3年間、体づくりを中心に鍛え上げ、福岡ダイエーホークスの3位指名でプロの門をくぐった。

 プロでの松坂との初対戦は2002年4月23日。杉内は五回まで1失点と好投し、負けはつかなかったが、後続が打たれ、松坂に完投勝ちを許した。03年、04年にも直接対決はあったが、いずれも松坂に軍配が上がった。杉内が力をつけた07年、松坂は大リーグに舞台を移していた。

<「結局、松坂に勝つことなく、僕が先に引退してしまったので、心残りではあります」>(同書73頁)。沢村賞も獲得した通算142勝左腕は松坂へのリベンジを果たせないまま、18年シーズンで現役生活に幕を閉じた。

 福岡ダイエー時代から、杉内とともに先発ローテーションを組んだ「松坂世代」もいる。杉内から1年遅れてダイエーに入団した新垣渚と和田毅だ。

 沖縄水産高校時代の新垣は、190㌢近い長身から繰り出す150㌔の速球が魅力。「東の松坂、西の新垣」と、二人の怪物は早くからプロのスカウトから注目されていた。沖縄だけでなく九州でも自分ほど球の速い投手はいないと自負していた新垣だが、2年秋の明治神宮大会で初めて自分より数段上の投手がいることを思い知らされた。

<「井の中の蛙、ではないけど、(略)大輔と対戦して、アイツよりも速い球を投げたいと思った」>(同書168頁)

 沖縄水産は春夏の甲子園出場を果たしたが、救援を任された新垣が球速にこだわりすぎて制球を崩し、どちらも逆転負けで初戦敗退。「西の怪物」は甲子園では1勝もできなかった。


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